92.過去と未来

 音もなく、突如として。闇夜から現れたドラゴンが、前足の鋭い爪で服を引っ掛けてきたのだ。
 徐々に地面から引き剥がされる――高いところから落とされればひとたまりもない――手をくれになる前に”雷”を――。
 キラは身体を捻って右腕を突き出し……唖然とした。

 ――グゥォォオアアッッ!
 雄叫びを上げるドラゴンの様子が、どこかおかしいように見えた。
 巨躯を操り空中を羽ばたく姿、長い首をもたげる姿勢、牙の隙間から漏れ出る炎。その恐ろしさも迫力も、一つとして変わるところはない。
 だというのに。夜空を舞おうと飛び立つそのさまが、ひどく苦しそうに思えた。

 とっさに右腕を引っ込め、身をよじる。ドラゴンが爪で突き刺したのは、正確に言えばグレーのコート――ジタバタともがくと、セーターもろとも脱ぎ捨てることができた。
 すると今度は浮遊感がなくなり、地面へ吸い寄せられる。城門を越えて、”四角広場”まで投げ出される。

 ぎりぎりのところで姿勢を整え、着地とともに前転。衝撃が全身を駆け巡るも、”強靭な身体”はそんなことでは傷つかなかった。
 再び走り出そうとして、
「こんな時に……! 空に雲はないじゃないかッ!」
 キラはうごめく心臓に呻きつつ、少しばかり膝をついた。
 怒りを握りこぶしに変えて膝をたたき、次の瞬間には、その場へ押し止めるような鼓動を振り払って走り出す。

「”力”は東から――この感じ、まだブラックは帝都についてない」
 ”闇の神力”は、帝都を中心として展開されているわけではなかった。
 まるで、雲が急激に発達して、空を覆い尽くすかのように。東側からかなりの勢いで”闇”が伸びてきているのだ。

「これ以上街を巻き込めない――ってのに!」
 ”四角広場”を突き抜け、”六角広場”へ繋がる階段を、ひとっ飛びに飛び降りた。
 ドラゴンの放つ灼熱のブレスが、冷たい空気を焦がしながら迫ってきたのだ。
 ぎりぎり飲み込まれるところを、すんでのところで回避する。
 再び前転で衝撃を和らげ、焦げた白シャツを叩きながら前へ進む。

「とにかく人のいないとこに――でも――ッ」
 海からの砲撃音をきっかけとした、海賊たちの襲撃騒ぎ。帝都の門を押し破り入り込んだ恐怖は、尾を引く混乱を巻き起こしていた。
 その騒ぎに乗じた暴動も発生し、とくに”八角地区”の至るところから、火の手や黒煙や怒号が轟いているのである。

 そして、いくら皇帝の鶴の一声があろうとも、現場の帝国兵士たちの耳に届くはずもなく――。
「やつだ! あの黒髪の!」
 ”六角広場”に降りたキラは、黒染めの騎士集団を前にして、進路を変えざるを得なかった。
 階段を降りるのをあきらめて、とにかく人手の薄いところへ一直線に走り出す。

 だが、騎士たちもそう簡単に見逃してくれるわけがなかった。”身体強化”の魔法で、一人の兵士が先回りをしていく手を阻む。
「人のいないとこ――街の外なら……!」
 キラはつぶやきつつも、真っすぐに突っ込んだ。
 鯉口を切り、柄に右手を添える。

「止まれ! さもないと――」
「君の方こそ!」
 振り抜かれる剣は、力もあり速さもある。
 魔法で強化された剣筋を見極め、抜刀。
 最小限でその軌道をそらした。
「くっ……!」
 兵士は喉を鳴らして覚悟を決め――しかし、キラは振り抜いた刀を返すことはなかった。

 その隣を走り抜け、唖然とする兵士に向かって声の限り叫ぶ。
「戦争は終わった! けど――まだ戦いが続く! できる限り避難をッ!」
 兵士の耳に届いたかはわからない。
 ただ、魔法を使えばすぐに追ってこれるのは確かだ。実際に、ドラゴンの炎以外にも、様々な魔法が追いかけてきている。

 肌を伝うピリピリとした感覚や直感に従って避け続け……ようやく、”六角地区”の端っこが見えてきた。
 帝都独特の、角数が小さくなるごとにせり上がっている街の構造。これこそがキラにとっての唯一の逃げ道だった。

「――ッ!」
 飛び降りる先は”八角地区”。木造建ての多く連なる一帯の屋根。
 覚悟はしていたが、刹那に訪れる滞空時間に肝を冷やした。
 二階分はある高さを飛び――それに合わせて火球が飛来し――ほとんど一緒に屋根に着地する。
 傾斜のある屋根に足がついた途端、爆風ではじき出され、更に下へ。
 なんとか受け身をとったものの、石畳に叩きつけられた衝撃は、身体も脳も揺らした。数秒間、ろくに動くこともできず、ただ呻くしかなかった。

「う、ゔ……っ」
 しかも。
 見計らったかのように、心臓の鼓動が身体中を巡った。胸の中心だけでなく、全身の血液が沸騰しそうなほどに唸りを上げていた。
 身体が乗っ取られる。そう感じ取り、無理を通してでも立ち上がった。

「まだ……!」
 キラはくらりとしつつ、しゃにむに走り出した。
 直後、背後で冷たい空気を引き裂く爆発音が轟き、その爆風に押されて大きな通りに転がり出る。
「ここじゃだめだ……! こんなところで暴れられたら……」
 大通りはかなりの広さがあるにも関わらず、それぞれの家から飛び出た人たちでいっぱいになっていた。
 悲鳴と恐怖が縦横無尽に駆け巡り、ドラゴンが現れたことでより濃密なものとなる。

 キラは人の波の中を駆け抜け――ハッとして上空を振り向いた。
 ドラゴンが火球を放とうと、牙の内側に力を溜め込んでいる。
 人通りの少ない脇道へ抜けようとしたところで、躊躇なく放たれた。その矛先はブレ、道端で腰を抜かした男へ向かう。

「こンの――ッ」

 ほとんど何も考えていなかった。
 ただ、一途に。身を翻す。
 すると、不思議なことが起こった。
 身体を乗っ取ろうと画策していた蠢きが、ピタリと止まったのだ。それどころか、男を飲み込もうとする火球に向かって、一緒になって駆け込む。
 構える刀も、見極めた軌道も、すべてが”誰か”と重なっていく。

「――ッ?」
 刀を振り抜く直前、得体のしれぬものが身体の内側を駆け巡った。
 その激流はやがて刀身へと収束し――白銀の刀身を”雷”が包む。
 いきなりの異変にキラは”センゴの刀”を取り落しそうになるも、”誰か”が代わりにギュッと握りしめていた。
 そうして、一閃。
 刃は”雷”とともに炎を引き裂き、飲み込み、消し去ってしまった。

 何が起こったのかと、疑問を抱く暇さえない。ドラゴンは、再び炎を牙の内側で溜め込んでいる。
 キラは男の腕を掴み、
「ほら、立って! 行ってください!」
 強引に立ち上がらせて、その背中を押した。

 それと同時に、ドラゴンへ背中を向ける。狭い脇道へと飛び込むと、火球が放たれた。
 迫る熱気が、家屋や石畳を砕く。石塊が飛び散り、木片が降り注ぐ。時に刀で振り払いつつ、がむしゃらに足を動かした。
 角を曲がり、真っすぐ進み、また角を曲がる。
 そうしていると、帝都を囲う背の高い防壁が見えてきた。
 一気に街の外まで走りたかったが、そんな思いとは裏腹に足が止まってしまった。

「ハァ、ハァ……。この辺は、あまり人がいない……良かった」
 ずさんな増築や改築で複雑に入り乱れた家々の間を走り、更には裏路地へ逃げ込んだからか、上空のドラゴンは姿を見失ったようだった。
 キラは家屋の陰からその様子を見てホッとし……泥の地面を踏みしめる金属音が近づいたのを、敏感に察知した。

「帝国兵士……!」
「いたぞ、こっちだ!」
 直後、呼子笛が甲高く空へと舞い響く。
 キラは焦りをつのらせ、反射的に走り出した。
 敵は一人。他の兵士が駆けつけるまでに無力化すれば……。

「貴様、止まれ!」 
 抜きさった剣を右手で構え、左手に炎を宿す帝国兵士。
「君らこそ、もう止めたらどうだ!」
「何を……ッ!」
 放たれた炎をギリギリにまで引きつけ、避ける。
 兵士は一歩後ずさったが、キラにとっては大きな隙でしかなかった。

「観念するのは貴様だ、少年! 我々は――」
 構えた剣を刀で弾き、そのまま懐へ踏み込み、みぞおちめがけて強打する。
「――ばけもの、め……」
 崩れ落ちる兵士に対して、キラはふんと鼻を鳴らした。
「……化け物って、普通あっちのこと言うでしょ」

 鳴らされた警笛を聞きつけたドラゴンが、翼をひろげていた。
 羽ばたく巨体の陰からは、いくつもの黒煙と火の手が見えた。火球で、あるいは凶悪なブレスで、どこかの誰かの家が沢山燃やされたのだ。
 街の外までは後少し。だが、後少しの距離で、さらなる犠牲が生まれる。
 逃げることは許されないのだと、キラは刀を強く握った。

 その時、
「ぽっぽっぽー、はとぽっぽー」
 拍子抜けするほどに、陽気で音痴な歌声が舞い踊った。
 あまりの間抜けな音調に困惑していると、ドラゴンの背中から何かが現れた。紅の鱗の隙間から絶えず噴き出す火の粉に、その姿が照らされる。

「……インコ?」
 鮮やかな青色が特徴的な小鳥だった。恐れ知らずにも、ドラゴンの周りをぱたぱたと羽ばたき、最終的に鱗が激しく割れた額にちょこんと乗っかる。
「みーつけたー。……って、ドラゴンが追ってたから、分かってたけどねー」
「……喋った」
 まるで人間が話すように言葉を紡ぐ小鳥に、ますます困惑してしまう。その言葉を遮らないようおとなしく羽ばたいているドラゴンには、もはや笑ってしまいそうだった。

「しゃべるよー、そりゃー。まー、鳥に代弁してもらってるけどねー」
 ドラゴンの背中から、また別の姿が現れた。
 体格に見合わない大きなローブをかぶっているせいで、はっきりと認識するまでに時間がかかったが……子供のようだった。
 フードの暗がりでその顔つきは判別がつかず、ピクリとも動かないために本当に子供なのかもわからない。
 だが、その人物がインコを操っているのは確からしかった。

「……君は?」
「ロキ。知ってるー?」
「知ってる。”五傑”のロキ。……”操りの神力”をもつ”授かりし者”」
「じゃー、話がはやーい。戦うよー」
「一応、聞いとくけどさ。君たちのトップ……皇帝は、戦争はおしまいだって公言した。その上で、戦うつもり?」
「馬鹿かなー。そのためにいるんじゃーん」

 直感したとおり。ロキには常識が通用しなかった。
 インコが夜空へ向かって飛び立ち、ドラゴンがそれに合わせて空気を目いっぱいに吸い込んだ――ところで、巨躯が”闇”に飲み込まれて消えた。
「このタイミングー、くそ馬鹿かなー」
 ローブ姿のロキが、足場を失ったことでふわりと浮く。が、落下はしなかった。
 石畳を突き破って出てきた岩の柱が、代わりの足場となったのだ。

 キラはその”操りの神力”の強力さに気を引き締めつつ、更にそれを上回る”力”の圧力に奥歯を噛み締めた。
「手を出すなと言ったはずだ。文句ならそのインコを使って自分に言え」
「むかつく皮肉ー」

 ”闇”を渡って、ブラックが現れた。
 レオナルドとの修行で戦った幻と、殆ど変わらない。
 仮面のような冷酷な面持ち、血のような赤い瞳、透き通るような白い髪。真っ黒なコートに身を包む姿は、まさに闇の住人だった。
 だが、腰に携える剣だけは、なにやら様子が違っていた。
 様子が違うことに、気づいてしまった。

「戦争がどうとか言っていたな」
 明確な敵意と殺気……それらが、一陣の風となって吹き付けてきているようだった。
 恐怖の塊のようなそれにたいして、真っ向から受けて立つ。背中を向けるつもりも、一歩退くつもりもない。
 あるのは、ただ……。

「皇帝だろうがなんだろうが、止めるといって止められると思うか」
「……このまま続けば、どっちかが無くなるまで終わらない」
「過去の精算をしなければならんという話だ。二百年の因縁をなかったことにして前に進むなど、ありえない」
「それでも、立ち止まってはいられないんだよ。止まってたら、前が見えなくなる――怖くて一歩が踏み出せない臆病者になる」
「……師が師なら、弟子も弟子だな」
「……どういう意味」

 ブラックが腰に携えていた剣を引き抜く。白銀の刀身が、黒く染まっていく。
「やつもまた、過去を見ない。――その傲慢さが、奴自身の命を奪った」
 キラは構えていた刀を低く寝かせた。
 唸りだす心臓から怒りが漏れ、刀に巻き付く”雷”となって現れる。
「君の方こそ、先を見ようとしない。――あの人の寛容さが、誰をも救ったんだ!」

 押し寄せてくる”闇”に、溢れ出す”雷”。
 霧のごとく膨れ上がり、飲み込もうとする”力”。それに対し、縦横無尽に暴れ回る”力”が、その内側から貪り食らう。
 強大な二つの力が、一瞬にしてその場を二つに割った。

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