56.己

 目を開けていなくても、じりじりと肌をさす陽の光を感じた。
 だというのに、キラは凍えるような寒さを感じていた。目が覚めてから、度々感じていた体の内側を蝕むような感覚……。
 瞼の裏に、様々な出来事が断続的に浮かび上がる。
 薪割りでのこと。『はずれの畑』で魔獣と対峙したときのこと。ユースにほとんど無意識にアドバイスをしたこと。
 どの瞬間も。身体が、口が、心臓が……誰かに乗っ取られたかのように動いていた。

 それが一体誰なのか。
 キラは、己自身なのではないかと、最初から半ば確信していた。
 だからこそ、目を背けていたかった。知らない自分を知るのが、ひどく恐ろしかった。
 一体何をしたのか。過去に何が起こったのか。なぜ慣れてもいない剣をいともたやすく扱えるのか。嫌な予感を、どうしても振り払えないのだ。

 だが……。
「僕は……」
 自分から逃げられず、直視せざるをえなくなった。
 汗をかいて気持ち悪いと家に駆け込むユースを見送った直後のこと。
 雨の降りそうなどんよりとした雲を見つめていると、途端に心臓が蠢き出したのだ。
 そうはいっても、気持ち悪いだけで、特別痛くもなかった。少しばかり呻いていれば、収まりそうなほど弱々しいものだった。

 だがその時、見てしまったのだ。
 遠巻きにざわめく村の皆の姿を。その表情を……。
 誰も彼もが、鏡写しのように、問いかけているように思えた。

「僕は、なに?」

 誰もが、答えようのない疑問だった。
 寒くて、寒くて、たまらなくなる。探せば恐ろしい答えが待っているのではないかと、そう思ってしまう。
「僕は――」
「君は君だ……という言い方では、あまり納得しないだろうね。実際、説得力もない」

 しゃがれた声につられ、キラは重いまぶたを開けた。
 ベッドのそばには、ランディがいて、ユースがいて、エーコがいた。親子三代、揃って同じような表情をしている。
 しかし、それぞれ微妙に違い、ユースなどは今にも泣き出しそうになっている。
 キラはそんな少女の姿を見て、なぜだかほっとして……わずかながらに寒さが和らいだ気がした。

「しかし、だよ。過去の自分がどうあれ、今の自分がどうあれ……時間が進む限り、これから先も同じままでいられるとは限らない。……同じであるはずがないのさ」
 老人は少し寂しそうに微笑んだ。
「君だけでなく、私だって。これから先も何者かであろうとしなければならない……変わらねばならない。そこは、皆平等だ。記憶があろうがなかろうが、心持ち一つで変わっていける」

 その時のキラは、知らなかった。
 ランディが、過去に英雄と呼ばれていたことを。
 だが、だからこそ。いつもよりもしわくちゃになった老人の微笑みが、胸に突き刺さるようだった。
 ただし、それは決して、貫くような痛さではなく……。

「僕は、何になれる?」
「何にでも。思うままに、心惹かれるままに。過去は亡霊のようについてくるが……君にはそのしがらみがない分、誰よりも自由なんだよ」
 胸に広がる柔らかな温かさは、身体を縛ってやまなかった臆病者を、どこかへ追いやってくれた気がした。

 居ても立っても居られず、とにかく体を動かしたい気分だった。
 背筋を這うような寒気も、頭の中を悶々と覆うモヤのようなものも、すでにない。先程までの気持ち悪さもどこかへと消え、それどころか翼が生えたかのように身体が軽い。
 目いっぱいにその心地よさを味わいたく、ユースも一緒になって飛び出ようとした。

 が、部屋の扉の前には、腕組みをしたエーコが立ちふさがり……。
「ついさっき何が起きたと思ってるの! ユースも、こういうときこそキラくんを止めなきゃいけないでしょう!」
 二人してシュンとしてベッドまで戻った次第なのである。
 キラはうずうずとした気持ちを抑えながら、ユースと並んでベッドの端に座り。なおも説教を続けようとするエーコをランディがなだめ、「紅茶を頼むよ」と言いながらそっと部屋から追い出した。

「ふふ、ユースもキラくんも、今日ばかりは我慢しないとね」
「うー! あんなに怒ることないじゃん。ねえ、お兄ちゃん」
「うん。だけど……まあ……今までのこと考えると、当たり前のような気もする」
 しかし、ユースはそれでは納得できないようだった。つまらない気持ちを顔全部であらわし、ふてくされたようにベッドに横たわってしまう。

「キラくんも、そう言いながらユースと同じ顔をしているように見えるが?」
「……。外出たかった」
「ふっふ! 正直でよろしい。ただね、エーコの気持ちも汲み取ってあげてほしい。あの子も、まだ三十にもならないのに色々と経験してしまったから。君のような子を見ると、放っておけないんだ」
「色々?」
「うむ」

 老人はうなずくだけで、それ以上踏み入った話はしなかった。
 キラも聞いてはいけないことなのだと勘付き、背後でゴソゴソと動くユースが背中を弄ってきたのを感じつつ、続けて浮かんだ疑問を投げかけた。
「なんで良くしてくれるの? あなたも、ユースも」
「む? それは簡単さ――」
「友達だからだよ!」
 老人の言葉を遮り、少女の声が部屋中に響いた。

 ぴょん、とベッドから飛び起きたユースが、隣にピッタリひっついて座る。キラが目を合わせると、彼女は嬉しそうにニカッと笑った。
「友達ってより、”お兄ちゃん”って感じだけど。お兄ちゃん、欲しかったし」
「友達……」
 キラは少女の期待の眼差しに気づき、ハテナを浮かべつつも、その黒髪を撫ぜてみる。少女は嬉しそうに身震いし、ぴとっと抱きついてきた。
 すると、うめき声が聞こえた。ランディの方へ視線を向けると、老人は即座に咳払いをして居住まいを正したが、何やら寂しそうに肩を落としていた。

「……?」
「いや、いや。気にしないでくれたまえ。――で、なぜ君に良くするのか、だったね?」
「うん」
「君が、私達の伸ばした手を掴んでくれたからだよ」
「……いつ?」
「言葉の綾さ。記憶を失い、わけのわからない状況で、君は私達を拒絶することもできた。まあ、目覚めたあの様子からして、仕方ない部分もあっただろうが……とにかく君は、何の躊躇もなく私達を信じてくれた」

「……それだけ?」
「ああ。たったそれだけ。だが、大きなことさ。助けようと伸ばした手を払われるのは、存外悲しいんだよ。そして、手を掴んでくれるのは、とても嬉しい」
「よく……わからない」
「ふふ、きっといつかわかる日が来る。躊躇なく手を差し伸べる、あるいは差し伸べられた手を掴む――そういう関係こそ、この世で最も大切にするものだ。覚えておくと良いよ」
「うん。分かった」

 老人は至極嬉しそうに微笑むと、「さて」とつぶやいてゴソゴソと動き始めた。
 テーブルと椅子をベッドに横付けし、慌てて部屋を出ていったかと思うと、何やら本を抱えて戻ってくる。
 ユースと一緒になって老人がテーブルに本を置くのを見ていると、エーコがお盆にティーカップを載せて部屋に入ってきた。

「ああ、エーコ。いいところに。これから勉強会をと思ってね。魔法について、色々と教えてやりたんだが……ほら、なにせ私は魔法が使えないから」
「え? でも、まだ掃除が残ってるし、後でなら。――って、キラくん、顔真っ青だけど、どうしたの? 具合でも悪い?」
 キラはテーブルに次々と並べられていく紅茶には見向きもせず、じっと本の背表紙を見つめていた。

「勉強……?」
「お父さんが魔法を教えるみたいだけど……もしかして、勉強、嫌い?」
「震える」
「ふ! ごめんなさい……ふふ。でも、きっと大事なことだから。ユースと一緒に頑張ってね」
 エーコはくすくすと笑いながらキラの黒髪を撫ぜ、「紅茶のおかわりが欲しくなったら言ってね」と言い残し部屋を出ていった。
「そういえば、キラくんは文字が読めるのかな?」
「……読めない」
「ふむ、そうか……。ま、問題はないさ。簡単なことを先にかいつまんで、あとでエーコに実践してもらうとしよう」

 『言葉が先か、魔法が先か』。
 大昔の魔法使いが残した格言から入ったランディは、抑揚のない話し方でつらつらと魔法の何たるかを話し始めた。
 魔法と言葉には、密接なつながりがあるという。『炎』という言葉は魔法の炎を発現させ、『風』という言葉は魔法の風を巻き起こす。

 先の格言は、この単純な構造を言い表しているという。
 言葉から魔法が生まれたのか。あるいは、魔法を目にしたことで、その言葉が生まれたのか。
 約千年前、”天変地異”によってあらゆる文献が失われたため、魔法の起源は今も謎に包まれているのだ。

 千年より前から脈々と人類に受け継がれた魔法……それが”旧い魔法”である。
 これに対して、”新しい魔法”ともいうべき魔法が現れた。”天変地異”により出土した石版……”旧世界の遺物”とも呼ばれるそれに刻まれた言葉を解読したことで、今までになかった魔法を実現できたのである。
 それこそが、”転移の魔法”だった。

 数百年前に発見された石版を公爵家であるサーベラス家が管理し研究……魔法の実現に至ったのは、つい二百年ほど前。物流が豊かになり、それにつれて国内各地の食糧問題も解決され、今や”食の王国〟”呼ばれるまでに発展したそのきっかけだった。

「始まりはどうか知らないが、帝国が欲しているのは、王国の領土ではなく”神の魔法”とも呼ばれる魔法を生み出した石版なのさ。風のうわさでは、”幻覚の魔法”とやらが記された石版が帝国内で発見されたという話だが……私がかつて旅したときにも、ついぞお目にかかったことがなかった」
 思案顔でうつむきがちにぶつぶつと呟く老人を、キラはユースと一緒になってぽかんと眺めていた。

「おじいちゃん、むずーい!」
「……むずーい」
 ユースに続いて非難すると、ランディははたと顔を上げた。
 開いていた本をパタリと閉じ、苦笑しつつ謝る。

「ちょっと先の話をしてしまっていたね」
「ほんとだよ! 私もお兄ちゃんも、使い方知りたいのに!」
「知識として知っておくのは損がないことだよ。一応、この国の秘密なんだ……他に知ってる人は少ないのさ」
「秘密……? お母さんも知らないの?」
「うむ。だから、村のみんなにも内緒なんだ。いいね?」
「うん! お兄ちゃんも、三人の秘密、明かしちゃダメだよ!」
「がんばる」

 キラはつぶやくように言って、伸びをした。魔法に関する話を立て続けで聞いたせいでくたくたになり……誘われるようにベッドに横になる。
 ユースも顔を輝かせて一緒に寝っ転がり、仕方がないとばかりの老人の笑い声が軽く響いた。

「ああ、言うのを忘れていたが。キラくんも私と同様、魔法を使うことはできないよ」
 唐突も唐突。衝撃すぎる事実をサラリと言ってのけるランディに、キラは何も言えないまま固まっていた。
 その代わりというように、ユースが驚きの声を上げる。
「えー! じゃあ早く言ってよ! お兄ちゃん、疲れるだけじゃん!」
「ユース、いつも言っているだろう? 知識は持っておくだけで武器になる。なにより……じいちゃんは物知りだろう?」
「そうだけど……」

 ぴょんと跳ね起きたユースが、気まずげにチラチラと伺ってくる。キラはその視線でようやく体が動くようになり、ぎこちなく体を起こした。
 少しばかり寒気を感じた気がして、しがみつくようにユースを抱きしめた。
 少女は抗うどころか、身体をくるりと回転させ、母親がするようにぽんぽんと背中を叩いてくれる。

「なんで……?」
 キラは少女の温かさにほっと息をつき、老人に視線を合わせた。
「代わりの力をもっているからさ。”神力”という、この世に二つとない強大な力を。私も君も、その代償として魔法を使えないんだよ」
「そう、なんだ……」
「気に病む必要はないよ。今はまだ使えないが……特殊な訓練をすれば、君を救う強大な力となる。もはや時間の問題と言っていいだろう」
「けど……」

 キラの頭の中では、ぐるぐるといろいろな言葉が回っていた。
 過去、記憶喪失、消えてなくなった自分……。言葉が言葉とつながっていき、どんどんと圧迫して……ぽろりと口から漏れ出る。

「僕が僕じゃなかったら……」
「誰もが思うことさ。――かつて、私はこの国の王子と旅をしたことがあったんだが……。その前に、君は王子という存在にどんな印象を持っている?」
 脈絡のない話に、なぜだかキラは惹きつけられた。
「誠実?」
「おっと、そうきたか……。裕福だとか、優遇されているとか、そういう印象があると思ったが」
「それもある気がする」
「ふふ、共感してもらえそうで安心したよ」
「共感……?」

「今も言ったとおり、昔は王子だったラザラスというやつと旅をしていたんだがね。大胆で無茶苦茶して馬鹿する割に、ずいぶんと引っ込み思案な一面があったのさ」
「引っ込み思案……尻込み?」
「そうともいうね。あいつは第三王子ではあったが、王子という立場上、色々と厳し目の教育をされたらしくてね。色々と不平不満も溜まっていたんだろう。だから城を飛び出すなんていう思い切ったことをして……まあ、それが私と出会うきっかけとなったんだ」
「城を……」

「ただ、その反面、『王子として』やら『民のために』やら、そういうことを意識するのが癖になっているらしくてね。本人曰く、大胆なことをしようとすればするほど、一歩躊躇してしまうそうだ」
「大胆なことはするの?」
「ふ! ふッ……! それはそうなんだがね……!」
 老人はくつくつと喉を鳴らし、しまいに咳き込んでしまった。それからユースが心配して、キラの腕から飛び出て背中を撫でるほどに、大笑いと咳とを繰り返す。

「ありがとう、ユース。ちょっとツボに入った。……ああ、たしかにあいつは、悩む割にはやりたいようにやる」
「悩み損……」
「たしかに。ただ、それがあいつの癖であり、長年の悩みなのさ。度々ぼやいていたよ……『王子という立場じゃなかったら、もっと思うようにやれていたはずだ』って。あいつの全ては、良くも悪くも、王子時代に受けた教育が根底にあるんだよ」
「王子だからもっと出来る、じゃなくて?」
「私もそう思ったが、いざ力のある立場となると、意外としがらみが多くなるのさ」
「そっか……」

「そう感じたからこそ、あいつも城を飛び出したんだろう。王子である自分に我慢できなくなって。――私も、たまに自分がひどく嫌になる」
「嫌に……。僕と同じように?」
「そうさ。ただ……あいつも、私も、そして君も。自分が自分じゃなくなっても、また別の不満を持ってしまうだろう。自分が完璧と思える人間は、多分この世のどこにもいない。金持ちは金を持たない自由人を気にするものさ」
「そう……」
「だから、記憶がないから、魔法が使えないからと、気にする必要はないのさ。誰かに頼ればいいし、助けてもらえばいい。その分、恩を返して……そうやって色んな人と親しくなっていくんだ。ね、ユース」

 老人の問いかけに、黒髪の少女はコクコクと頷いた。
「私、お兄ちゃんに助けてもらったから。今度は、私の番!」
「だけど……。僕、たくさん助けてもらってるよ?」
「いいの! まだまだお礼したりないんだから!」
 ユースは祖父のそばから離れて再びキラの元へ近づき、パッと抱きついた。

「いつか、私がすごい魔法を覚えて、お兄ちゃんを助けてあげる!」
「じゃあ……頼んだよ」
 そう言ってキラが頭をなでてやると、少女の顔はだらしがないほど緩みきった。
 その愛らしさに頬を緩め……ふと、視線を感じて顔を上げる。祖父としてのランディが、喜びと寂しさの間で揺れ動いていた。

「く、ぅ……! 孫娘が離れていく哀しさと、キラくんが感情を見せた喜びとが……!」
 そんな珍妙な様子を、
「……なにやってるの、お父さん」
 扉を開けたエーコが目撃し、怪訝な顔つきをしてみせた。
 娘の冷ややかな声でランディはわれを取り戻し、何もなかったかのように咳払いをした。

「なんでもないよ。何かあったかね?」
「うん。村の外からお客さんが……。お父さんの知り合いみたいだけど……」
「む……? 私がこの村に戻ることを決めたのを知っているのは、ごく少数のはずだが……はて」
「なんか赤い本持ってて……。それ知らせれば、誰だかわかるって」
「赤い……。……ああ、思い出した」

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