57.奇才

 ぐる、ぐる、ぐる、と。
 老人が娘とともに部屋を出ていく様子が、渦巻き模様に歪んでいく。
 その歪みがきっかけだったかのように、次々と別の光景が浮かんでは消えていく。
 魔法の練習を頑張るユース。昔の冒険の話を面白おかしく語るランディ。ユースの野菜嫌いをなんとか克服させようと四苦八苦するエーコ。突如として窓から頭を突っ込んできて、老人と喧嘩を始める白馬のユニィ。
 中には、老人らしき手がつらつらと手紙を綴っている場面も。

 それら過去の記憶が、水の泡のように浮かんでは消えていく……。
 ぼこりと大きな泡が生まれては、不規則にその形を歪ませながら、水面に触れて大きく弾けて消える。
 そのさまを見届け、キラは息苦しさを感じた。

「――ッ!」

 もがいて、もがいて。
 自分が浴槽で溺れかけていたのだと分かったのは、大きな水しぶきを上げてぬるま湯から這い出てからだった。
「はあ、はあ……! なに……お風呂? なんで……」
 ふらりと立ち上がり、濡れた顔を何度も拭う。
 目から鼻から口から。否応なくあふれる水をやっとのことで振り払い、自分の状態に気がついた。
 裸だった。下着もシャツもズボンも着ていない、正真正銘の素っ裸。
 だが、それ以上に違和感があったのは、包帯も傷もやけどもない体の状態だった。いまだにしずくが垂れるそのどこにも、傷らしい傷がないのだ。

 ただ、
「胸に……?」
 さながら心臓を一突きされたかのような、ぷくりと膨らんだ短い筋が刻まれている。
 指でなぞってみると、ズキリと痛む。突き刺すような痛さにキラは顔を歪め……身体中から力が抜けて、浴槽にへたり込んだ。
 あまりの苦しさにうつむく。
 すると、水面に己の顔が反射した。

 黒目だった双眸は、片目だけが赤く染まりかけ、
「あ……ッ!」
 その赤さの奥に、それまでに何があったかを見た。
 暗闇を引き裂くドラゴンの炎に、闇に消え入るような真っ黒な姿の男。降りしきる雷と、そして、老人の……。

「お。目を覚ましたみたいだな」

 すべてを思い出そうとした時、どこからともなく声がかかった。乱暴な口調ながら綺麗で透き通ったそれは、若い女性のものだとわかる。
 水面から弾かれたように顔を離し、キラは周囲を見渡した。

 今まで気づかなかったのが不思議なほど、辺りは真っ暗だった。何も見えないなかで、カツカツと、甲高く靴の音が響き渡っている。
 目を細めて警戒していると、ボッ、と真横で炎が灯った。
 わっ、と驚く間もなく、真っ黒なローブで体を覆った黒髪の女性が現れる。

 キラは反射的に後ずさりをして……浴槽の縁にとんとぶつかり、勢い余って後ろ向きに体が傾ぐ。
「わ――んっ?」
 が、体は浴槽から飛び出ることなく、珍妙な体勢で静止していた。
「おっと、慌てないでおくれよ。オレは敵じゃないし、お前さんの事情も把握しているつもりだ。何より、今倒れられたらせっかくの治療がパアになる」

 見れば、黒髪の女性がピンと立てた指を向けていた。
 彼女が慎重に指を振るうと同時に、キラの意思に関係なく、体が浴槽の中へスルスルと戻っていく。
 その様に軽く頷いた女性は、今度は火の玉を指の先から放った。
 ふよふよと泡のように天井近くまで浮かび上がり……とどまったかと思うと、ブルブルと震えだす。一つの炎が四つに分裂し、更にまた四つに。
 そうして天井全体に火の玉が行き渡り、部屋全体を明るく照らした。

「ふう……気をつけておくれよ。お前さんの体はまだまだぼろぼろなんだ。足腰はまだしも、上半身が床で擦れようものなら。慎重に慎重を重ねる治療なんだ」
 明るくなった部屋には、窓一つ見当たらなかった。
 部屋の壁一面、棚で埋め尽くされているのだ。ガラス瓶やビーカーや本が、乱雑に詰め込まれている。堅牢な鉄扉が開くだけのスペースがあるのみの、なんとも奇妙な壁だった。
 本棚以外の調度品はほとんどなく、こぶりなテーブルが一つ隅の方にあるだけ。

 何より目を引くのは、床だった。見るも寒々しい石の床であり、騎士団支部の”転移の間”と同じように、魔法陣が刻まれ細かな砂が敷き詰められている。
 キラが浸かっている浴槽は、一つだけあるテーブルと同じく、石床の魔法陣を避けるように端の方へ寄せられていた。

「ま、そうはいっても、確立された治療法じゃないんだがな。お前達専用の独自療法ってやつだ。実践は初めてだが……ま、理論と研究の勝利さ。上手くいってよかった」
 黒髪の女性は男らしい口調でぶつぶつと呟き、ぐっと体を曲げ、前のめりに覗き込んできた。
 キラはなんとかして逃れようとして……見てしまった。

 女性の格好は、はたから見れば魔法使いだった。闇に紛れるような真っ黒なローブで全身を覆い隠している……のだが、随分とだらしなく着崩しているのだ。
 体が動く度に、ローブの内側があらわになり――裸であることを物語る。浅黒い肌は、炎に照らされる中では、それはそれは美しかった。
 あられもない姿で堂々としていることに、唖然として口を開け……口元のすぐそこまで迫っていた水面から、一気に水がなだれ込んできた。

「げほっ、ごっ……!」
「おいおいっ、言ったろうよ! それ以上体が傷ついたら――おっと?」
 キラは恥ずかしさのあまり暴れたが、黒髪の女性の魔法なのか、全く体を動かすことはできず。
 もはや身を任せる他なかった。
「あっはっは! いや、すまない。女の体が男にとってどれほど毒なのか、すっかりと忘れていた!」

 あまりにも無粋な態度に、キラは八つ当たり気味に睨みつけた。
「おっ、見たくせにえらく生意気だな。ほれ、なんか言ってみろ」
「別に、僕は……」
 キラは怒鳴りつけるように腹に力を込めたが、情けなくも掠れた声しか出なかった。
「よし、声は出るみたいだな。体もようやく元気になったみたいだが……まだ一日は安静が必要だなあ」

 男にも負けないほど勇ましい顔つきから、途端に女性が見せる母性を覗かせる。
 その変わりようは別人のようで……どこかランディを思わせる和やかさがあった。
「あ……」
 その時、唐突に。ある光景が言葉とともに蘇った。
『何者だったか悩んだ時――』
 胸を突き刺す強烈な痛みには、左腕を失った老人がいた。そのくしゃくしゃな顔は、いつもよりもくしゃくしゃで悔しそうで……それでも笑っていた。

「おっと、思い出しちまったか? 記憶への扉ってのは、どこに鍵があるかわからないのが厄介だな。もうちょっと忘れてくれていたほうが整理もしやすかっただろうに……」
 そう。
 ランディは、死んだのだ。
 その事実が、重くのしかかる。
 枯れた喉では、嗚咽すらも薄れていった。

「ほれ、男が泣くんじゃない」
 パチンと耳元近くで手を叩かれ、キラは緩慢な動きで目を向けた。
 浅黒い肌をもつ女性も、耐え難い痛みにこらえるように頬を引きつらせている。何度か震えるまばたきをして、自分を納得させるように頷くと、次には男らしい笑みが戻っていた。

「良いことを教えてやろう。おまえさん、”三人のキサイ”は知ってるか?」
 ぐっと顔を近づけて、色艶のある声で囁いてくる女性に、キラは反応しなかった。
「知らずともわかるさ――なにせ、このオレがそのうちの一人、”奇才”レオナルドなんだからな!」
 レオナルド。”神力”について、かの英雄が頼ろうとしていた人物の名前だ。

 他にも色々と話を聞いた気がして、それを思い出そうとし……ぐっと口をつぐんだ。涙を拭いたくても、手が全く動かない。
 すると、じっと見つめてきていた女性――レオナルドが、顔を寄せてきた。ふわりと心地よい香りが漂い、その唇の柔らかな感触が頬に宿る。

「絶世の美女にキスされて嬉しいか? だがオレは男だ」
「男……?」
「正確には、元男だ。聞いて驚け! 研究に研究を重ね、実験の果てに! オレはこの体を手に入れたのだ――『若返りの魔法』と『女体化の魔法』でな!」
 レオナルドの言葉が、びんびんと耳の奥で響く。その内容が理解できないほど、頭も心もぐちゃぐちゃとしていたが、無理やり押し込められたように頭の中に入り込んできた。
 キラは呆然として、じっとレオナルドの顔を見つめた。

「信じられねえか? しかしこれが事実! ”不死身の英雄”ことランディという名の男は、オレの古馴染みだ」
 軽い口調ではあったが、その言葉の端々には哀しさと辛さと後悔のようなものが入り混じっていた。
 微弱な感情の起伏を敏感に察知し、キラは半開きになっていた口をつぐんだ。

「証拠がほしいか? そうだな……例えば、この手紙。ついこの間、俺がちょいとした用事で手紙を送ると、すぐさま返事が来たんだ。知ってるか? あいつ、字がへったくそなもんで、滅多に手紙なんて書かないんだよ!」
 ローブのポケットから便箋を手に取り、その中から一枚だけを丁寧に取り出す。
 『親愛なるレオナルドへ』と始まる文字を見て、キラは瞬時にランディのものであると確信した。
 読めはしなかったが、夢の中で見た老人の手が綴っていたものと同じであり……何より、見覚えのある文字の下手さに声すら聞こえてくるようだった。

「泣き虫さんよ。あいつを知る人間として言っておくが……」
 レオナルドが本来の年齢と性別を感じさせない手付きで、頬を拭ってくる。
 そこでキラも、再び涙がとめどなく溢れていることに気づいた。今度はなんとか手を動かし、ぱしゃりとぬるま湯をかけてごまかす。

「あいつはクソジジイだ。自分で何もかもを決めて、他人の気持ちなんてこれっぽっちも考えねえ……良くも悪くも頑固者なのさ。偽善者だなんだと言われようと、親切を人に押し付けるようなやつだ……そいつが迷惑に思っていようと、あいつはなんとも思わない」
 レオナルドの口調には、先程の後悔の念のようなものはなく、昔を懐かしむような響きがあった。

「だから……まあ。もらった命は受け取っておけ。それが供養にもなる。――これだけは言えるが、お前さんが泣いて悲しんでも、あいつは嬉しくともなんとも思ってないのさ」
 ぐりぐりと頭を撫でられ、キラはしっかりと頷いた。
 泣いている場合ではないのだ。ランディのためにも、そして、レオナルドのためにも。

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