ユースは、何やら慌てた様子で部屋を出ていった。
キラは消える小さな背中を見届け、ふとドアの近くに立てかけられた姿見に気づいた。紺色のシャツとブラウンのズボンに身を包んだ身体が、それぞれ端の方だけ映っている。
少しばかり身体を傾けてみると、今度は童顔な少年の顔が鏡に現れた。
「……」
キラは、姿見に映る己と対面し、しばらくの間見つめ合った。
鏡の中の黒髪の少年は、ひどくうつろだった。まるでこの世のどこにもいないかのような、生気を失った顔つきをしていた。ユースが見せたような豊かな感情はかけらもない。
死人を思わす己のさまに、キラは恐ろしくなった。
そろりと視線を外し……そこで、白馬のユニィと目が合う。何を考えているかわからない馬面と見合い、再び手を伸ばしてみる。
ユニィも、やはり嫌がることはなく、むしろ自分から細長い顔を近づけてくる。――が。キラの指先が頬に触れることは叶わなかった。撫でようとする手を避け、白馬が袖に噛み付いたのだ。
「……!」
あっという間に。物凄まじい力で。引っ張られる。
肘やら腰やら足やらを窓枠にぶつけ、それでも構うことなく外へと引きずり出された。
身体中がじんじんと痛み、ザラザラとした地面にうつ伏せになる。
「うぅ……」
キラはうめきながら身体をよじり、仰向けになった。
身体中ににじむ痛みに目を細め……しかし、はっとしてまぶたを開いた。
「青い、空……」
瞳に映り込むのは、晴れ渡る空だった。どこに居てもその青さが目に映るのではないかというくらいに、空はきれいに一色に塗りつぶされている。
太陽は突き刺すように眩しく、暑い。通り過ぎる風をも生暖かくし、広い空を独り占めにしている。
雄大な大空に吸い込まれそうになっていると、視界が馬面で一杯になった。
「……びっくり」
キラはそれまでよりも機敏に反応し、身体を起こした。
白馬に追い立てられるように、少しばかりよろけながらも立ち上がる。
「っん……」
気だるい疲れのようなものを感じつつ、しっかりと両足で踏ん張る。
すると、突き刺さるような視線を感じた気がして、あたりを見回した。
屈強な男に、背高なひょろりとした青年、腰の曲がった老婆や寄り添う三人の主婦……。その場に居合わせた全員が、見てはいけない何かを見てしまったかのように、静まり返っていた。
そこは、グエストの村の村人たちで賑わう広場だった。この中心地には、自然と村人たちが集まり……誰もが、誰かの視線を追って静止する。
一人としてキラに近づこうとする者はおらず、それどころか遠ざかり――キラと村人たちの間には、自然と溝のような空間ができていた。
「……」
その目つきからか、顔つきからか。
キラも、彼らに近づくことができなかった。
人で満ち溢れているのに、広場にはわびしい空気すら流れ始め……それをあえて壊すような怒声が轟いた。
「ああ、ユニィ! また君ってやつは! 彼は病人なんだ、勝手に外に引きずり出しては駄目だろう!」
家の裏手から老人が現れるや、ずかずかと白馬に詰め寄った。先程の優しそうな顔つきはどこへやら、目つきを尖らせ怒鳴りつける。
対する白馬も、鼻を鳴らしていなないていた。「んだとクソジジイ!」とでも怒鳴り返しているように。
不思議で奇妙な光景だった。キラは目をパチクリとさせ……しかし、広場に集まっていた村人たちは、途端に我を取り戻し、くすくすと笑い声を漏らし始めた。
「まったく! 皆、騒がせてすまないね。さきも話したとおり、この子もまだ混乱してるんだ。来客は珍しいが、よしなに頼むよ」
村人たちは老人の言うことを素直に聞き入れた。止まっていた時が動き出したかのように、各々農作業やら水くみやら剣の修行やらに戻る。
が、誰も彼も、納得していなかった。キラは正確に表情を読み取り……すると、視界を遮るように、老人が立ちふさがる。
「ユースから聞いたよ。顔色はまだ優れないようだが……こんなに天気がいいんだ。うちの裏庭で日向ぼっこしながら話すとしよう。――こら、ユニィはついてくるな」
村を守る丸太の防壁との間に設けられた裏庭では、割られた薪が散乱していた。
黒髪の少女ユースは、母親らしき人物とともに片付けをしている最中であり、防壁側に設けられた小さな納屋にどんどんと運んでいた。
少女は祖父とキラの姿を認めるやいなや、戸惑いを隠せず棒立ちになっていた。
「ユース。少年はまだ病み上がりなんだ。引き続き、看病を任せてもいいかい?」
「う、うん……。あの、こっち……こっちに敷物敷いてあるから。座ったほうが、楽だよ」
キラはうなずくランディと手招きするユースに従い、ゆっくり歩き出した。
が、一歩目を踏み出して程なく、身体がふらつき前に傾ぐ。
「っと。お父さん、この子、やっぱりまだ外は辛いんじゃ……。力が入ってないし、それにちゃんと食事も取らせないと。いくらなんでも軽すぎるわよ」
キラは、ユースの母親の手を借りつつ、軒下に広げられた麻布に腰を下ろした。ユースにも支えられつつ、なんとか姿勢を維持して、顔を上げる。
すると、ユースの母親は娘とよく似た愛らしい笑みを浮かべた。
「こういうときは、ありがとう、って言ってくれると嬉しいかしらね」
「ありがとう……」
「どういたしまして。私はユースの母親のエーコよ」
エーコは再びニコリと微笑むと、ランディの方へ顔を向けた。
その表情は穏やかなものだったが、キラの目には、どこか不安を抱えているようにも見えた。
「エーコ、温かいスープを用意してくれるかい。それと、今晩はシチューがいいね」
「ええ、まかせて。――ユース、この子のこと、頼んだからね」
キラは裏口から家へ入るエーコを見送り、ユースもまた母親を視線で追っていた。
その直後、少女はぱっと顔を振り向かせ……何を言うべきか戸惑っているのか、小さな口が半開きになる。
正直者な少女を目にして、キラは少しの間考え……。
「……ありがとう」
そう告げると、ユースは口を半開きにして驚き、
「うん!」
次には唇を弓なりに描いてはにかんだ。
それから、少女は再度せわしなく介抱を始めた。キラの背中についた土埃に気付くや、優しく素早くぱっぱとはらい、事前に用意していたらしいタオルで首元の砂も落とす。
更には、それ以外にも異常がないかペタペタ身体を触りつつ探る。
そうして落ち着いたかと思うと、「待ってて!」と叫び、家の中へ。慌ただしく戻ってきた少女の手にはコップがあり、ちゃぷちゃぷと水面が揺れていた。
「はい、どうぞ!」
「……ありがとう」
慎重に渡してくるその動作に合わせて、キラもゆったりとしてコップを受け取った。
一口飲んで、息をつく。するとそれに満足したのか、ユースは隣に座り、距離を詰めた。
「やれやれ、孫を取られた気分だよ」
ランディはどこかおどけたように言いながら、キラの目の前にある切り株に腰掛けた。その拍子に、立て掛けていた斧がぱたりと倒れる。
キラは、なぜだかその斧の柄から目が離せなかった。
「それで、君は……名前を知らないようだね?」
「しらない……わからない」
「ふむ……。記憶喪失か……。ところで、ここはどんなところだと思う?」
「……村?」
「当たりだ。では次。魔獣を知っているかね?」
「ま……?」
「その様子では、わからないみたいだね。魔法は?」
「さあ……」
老人は腕を組み、シワのよる顔にさらにシワを寄せて、目をつむった。
しばらく沈黙が続き、じれったくなったユースが祖父を急かした。
「ねえ、おじいちゃん、なにか分かったの?」
「ふふ……何も」
「見掛け倒し!」
「返す言葉もないよ。ただ……記憶を失っているのは間違いないが、常識が全く欠けているというわけでもないらしくてね。どうするべきかと悩んでいたんだよ」
「どうするの?」
「とりあえず……そうだなあ。ずっと『少年』やら『この子』呼ばわりでは不便だから。『キラ』という名前はどうだろうか?」
「呼びやすい! 覚えやすい!」
「気に入ってくれたようで何よりだ。君は、どうだね?」
その瞬間。己の中でうごめく何かを思い出した。
腹の底に重くのしかかるそれは、死を象徴するがごとく、冷たく、暗く、恐ろしいもので……。
キラは、突き動かされるように頷いた。
見ないように、見えないように。知らないふりをして。