50.稀なる出会い

 歴史上、最も偉大で、最も有名な英雄は、記憶をなくした少年だった。
 目覚めた時、彼には、人間であるために必要なものが残されていなかった。親も、友も、故郷も、自分の居場所さえも……。
 そんな少年を拾ったのは、老いた英雄だった。

 世にも稀なる出会いのあったその日。
 グエストの村を包む豊かな森は、とても静かだった。
 密集する木々を風が通り抜けても、木立の間を老人と少女が歩いても、毛並みの美しい白馬が馬蹄を踏み鳴らしても。
 誰の耳にも、何も届かない。
 太陽の光さえどこか黙り込んだかのように思える雰囲気に、”不死身の英雄”とよばれたランディも、困惑を隠せなかった。

「ふむ……。いい天気ではあるんだがね……」

 老人は森中に視線をめぐらし、無意識のうちに左腰に携えた刀に手を添える。
 そうしつつ、時折連れ歩く白馬の表情を伺う。どこからともなく幻聴が懐かしく響くことに期待はしたものの、聞こえてきたのはブルルンっという妙な鼻息のみ。
 せめて表情を読み取ろうとしたが、そっぽを向かれ……。ただ、その首の振り方や耳の動き方、しっぽが揺れ動くさまから、彼もまた妙な気配を感じ取っているのは確かだった。

「なんだか……神様がいるみたい……!」
 対称的に、孫娘のユースはいつになく元気だった。
 森を歩くときは、いつも怖がってそばを離れないというのに、今日に限っては一人先頭を歩いている。木漏れ日の降り注ぐ緑のトンネルを、いっぱいに楽しんでいる。
 黒髪の少女の思いもよらぬ言葉に、ランディは注意するより先に声をかけた。

「神様か……。なぜそう思うんだい、ユース」
「え……? うーん……?」
 まだ十歳の孫は、己の感覚を正確に表す言葉を持ち合わせていないようだった。あるいは、その感覚を表現するには言葉では足らないのかもしれない。
 どちらにも覚えのある老人は、孫の悩む様子に強く共感し、思わず笑ってしまった。
 だが、それがどうやら、癪に障ってしまったらしい。
「もう、おじいちゃんの意地悪! おじいちゃんだって物忘れひどいくせに!」
 ユースはイーッとして威嚇すると、どんどんと先へ進んでしまった。
 目に入れても痛くないほど愛しい孫の言葉は、二重の意味でぐさりと突き刺さった。

 ショックで足元がおぼつかなくなり……その様子をまんまるな黒目で見ていたユニィが、カタッカタッと歯を鳴らして笑う。
 昔から人をからかうのに命をかける白馬にむっとし……しかし、ランディは何も言わずにため息を付いた。
「私ももう年寄りなのさ。――しかし、まあ……ユースの言う通り、いつになく神々しい」

 ある意味では、黒髪の孫娘の言葉は的を射ていた。
 奇妙なことに、森の中から魔獣の気配が消えているのだ。念入りに”覇術”でくまなく探してみても、魔獣のまの字すら見つからない。
 本来ならば、”覇術”を使うまでもなく、草むらから木の陰から襲ってくる。だからこそ、”グエストの村”の村人たちには一人で森に入ることすら禁じているのだが……。

「魔獣のいない森が非日常的とはね……。君がなにかしたということは?」
 再度、白馬へ視線を向けてみる。
 摩訶不思議な馬ユニィは、何をどう説明したら良いかわからないほど、強大な力を持っている。それこそ、森中にいる魔獣を一気に片付けることなど朝飯前だろう。
 だが、十年以上もだんまりを続ける馬は、静かに首を振っていた。

「ふん……。度し難いことだ。何も起きなければいいが……」
 刀の柄に手を添えたまま、再び”覇術”で己の感覚を研ぎ澄ます。
 今度は森の中だけではなく、海岸方面にも意識を向ける。己と、そばにいるユニィ、前方へ少し行ったところへユース……。

「うん……?」
 そこで、はっとして顔を上げた。
 白馬のユニィも気づいたのか、すでに走り出していた。ユースがびっくりするのも構わず、物凄まじい勢いでその隣を駆け抜ける。
「ひゃっ! なに……?」
「ユース、悪いが、海釣りはまた今度だ。誰か海岸に倒れているみたいでね!」
「え……! じゃあ、早く助けなくっちゃ!」

 我が孫ながらに純粋に育ったものだと頬を緩めつつ。
 ランディは表情を引き締めた。
 この不気味な森の状態で、何度も索敵を行った。
 無論、海岸にも気を配ったが――弱々しい気配を感じたのは、最後の一回だけだった。

   ○   ○   ○

 キラが『キラ』として生きることとなる前。
 グエストの村にうだるような暑さの季節が舞い込み始めたときのこと。
 海岸で拾われたキラは、”不死身の英雄”ランディの住まう家にて目を覚ました。

 そこは小さな部屋だった。暖炉やベッドやテーブルやクローゼット。必要な家具があるだけでも窮屈というのに、本棚や姿見なども詰め込まれているために手狭となっていた。
 そうはいっても、窓が朝日を一杯に取り込むおかげで、埃っぽさや湿っぽさなどはない。
 質素ながらも、整理整頓されて清潔感があり、どこか洒落ていた。

「……」

 そんな部屋で、キラは窓際のベッドで身を起こし、物言わぬ石像となっていた。
 童顔ながらもどこか大人びた雰囲気の持つ顔つきからは、感情が抜け落ちている。眉も頬も口元も、固まったようにピクリとも動かない。
 黒目の動きにも一切の感情がなく……鈍く動くさまは、まるで死人だった。
 言葉さえ脳裏に浮かばない状態で、キラはゆるりと視線を落とした。
 腰から下は毛布が重なり、太ももには己の手がだらりと乗っている。
 おもむろに手を上げ、目の前で握って開いてを繰り返す。

「……」

 じとりと汗ばんでいる手から視線を外し、今度は手首から肘かけて眼でなぞる。特に怪我などはなかったが、肌は血管が浮いて見えるほど病的であった。
 だが、キラはそれにも興味を失い、力を抜く。重力にしたがって崩れ落ち、びたんと太ももの上で跳ねる。

「……」

 何を思うこともなく、虚空に死人のような眼差しを向けていると、物音がした。
「うむ。起きたみたいだね。大丈夫だったかい?」
 ベッドの向かい側にあるドアが開いて、老人が姿を表した。
 その唐突な出来事に対しても、キラの反応は鈍かった。しばらく遅れて顔を向け、老人の顔へ焦点を合わせる。

「む……?」
 老人は怪訝そうに眉をしかめながら、そそくさと部屋を整え始めた。
 テーブルをベッドに寄せて、その上にお盆を載せ。せわしなくお茶を汲んで、しわがれた手で差し出してくる。
「……」
「茶だよ。……起きているんだよね?」
「……」

 老人の優しそうな顔つきがしわくちゃになっていき、心配そうな表情へと変わっていく。
 キラは目の前で起きる変化を食い入るように見つめていたが……その動きは、はたから見れば微動だにしていないのと同じだった。
「どうしたものか……。身体に目立った傷はなかったんだが……?」
 沈黙が部屋を支配しようとしたところ、外の方から素っ頓狂な悲鳴が聞こえた。

 老人はキラの目の前で気まずそうにため息を付き、持っていた湯呑をテーブルに置く。
 それとほぼ同時に、再び扉の方から物音がした。小柄な黒髪の少女が、扉の陰に隠れつつ、恐る恐る声をかけた、
「あ、あの、おじいちゃん……。お母さんが……薪割りに失敗して、斧が切り株に……」
「相変わらず慣れないんだな……。運動音痴なのは誰に似たのやら。――よし、じいちゃんがいってこよう」

 老人は独り言のように呟き、少女に向かって明るく言った。
 それから視線を虚空へ漂わせ、キラを少しばかり眺めてから、孫娘に向かって告げる。
「ユースは、この少年のそばにいてくれないかい?」
「え……」
 少女は戸惑いと若干の恐怖を表に出していたが、老人はその黒髪をなでて部屋を出ていった。

 老人がいなくなって、しばらくたった。
 カンッ、カンッ、と薪を割る乾いた音が部屋にも届いている。
 その間、少女はずっと躊躇していたようだった。部屋へ足を踏み出したり、ひっこめたりして、なかなか距離を縮めようとしない。

 キラも、じっとそのさまを見つめていたが、ふと視線をそらした。
 鼻から息を抜いて、自分の太ももに目を落とす。
 少しばかり、頭が回転し始めているのを感じていたのだ。脳裏に老人の声と言葉が反響する。

「だいじょーぶ……?」

 そのつぶやきは黒髪の少女にも届いたらしく、彼女は意を決して部屋に踏み込んだ。それでも、足音を立てないように、慎重に忍び足で近づいてくる。
 それに気づいたキラは、少女にゆっくりと顔を向けた。
 光のない濁った目つきに、少女は子どもらしく顔いっぱいで怯えたが……目が合うや、ピタリとその震えが止まった。どこまでも純真でつぶらな眼で、まっすぐに見てくる。

 そのままキラは動かず、黒髪の少女もまた身じろぎもしなかった。すでに怯えは消えたものの、彼女の瞳の中で様々な感情が渦巻いている。
 やがて、少女はそろそろとベッドの端までにじり寄り、そうっと手を伸ばした。
「手……。冷たい」
「……?」
 手の甲に重なった小さな手は、あついくらいに温かかった。

「その、大丈夫? 怪我、とかは……?」
 少女の顔を見て、視線を落としてその様子を目に映し、再び少女の顔へ。キラの視線の動きは、相変わらず緩慢ではあったが、それまでとは違って活発に動いていた。
 ユースと呼ばれた少女は、緊張でこわばっていた顔つきを、ほっとして緩めていた。

「あの。あのね。とにかく水分は大事って、おじいちゃん、いつもいってるの。だから、これ、お茶。ちょっと苦いけど、おいしいよ?」
 ユースはランディと同じようにせわしなく動き、テーブルの上に置かれた湯呑を手にとった。腕をぐっと伸ばして突き出し……、
「ひゃっ」
 ビタンッ、という物音にびくりとし、水滴がいくつか飛び散った。
 少女は慌てて湯呑をテーブルに戻し、あたりを見渡す。
「うぅ、こんなときに、拭くものが……! びちゃびちゃだから、待ってて、すぐ戻ってくる!」
 慌ただしく部屋を出ていく少女。
 キラは消えた小さな背中から、物音の聞こえた方へと黒目を動かした。

 馬面が、窓ガラスに張り付いていた。
 カッと見開いた黒目、むき出しになってガラスに張り付く歯茎、ブルルンっという奇妙な鼻息で震える鼻。
 世にも美しい白馬が、世にもブサイクに部屋を覗き込んでいた。

「……!」
 何に対しても鈍い反応しか見せなかったキラも、さすがに目を見開いた。
 だがそれも少しの間の変化であり……ユースがタオルを抱えて戻ってきたときには、驚きの感情はあっさりと抜け落ちていた。
「ユニィ、また小屋抜けてきたんだ」
 黒髪の少女は困ったように、しかしどことなく嬉しそうに言いながら、キラの身の回りの世話を始めた。
 手元と太ももを濡らしていたお茶をタオルで拭き取り、更に別のタオルを押し付けて水分を抜き取る。

「お母さんみたいにいっぱい魔法使えれば良いんだけど……でも、おじいちゃんみたいな格好いい剣士にもなりたいの。だから――って、あ! ユニィ、待って、開けるから! ガラス割れちゃう!」
 ユースはまたもせわしなく動き、窓際に駆け寄った。
 がらがらと開けると、白馬の首がにゅっと部屋の中に入ってくる。

 まるで人が覗き込んでくるかのように。ふんふんと鼻を鳴らしながらユニィは顔を近づけ……それに対してキラは、じぃっとその馬面を眺めていた。
 間近にすると、際立つ白馬の毛並み。鋭い陽光に照らされて強く輝き、身動きするたびにその輝きがなめらかに流動する。時折風に吹かれ、たてがみがめくれ上がり、サラサラと揺らめく。

「あ……。あのね。この子はユニィっていって、おじいちゃんの相棒のお馬さんなの。村の中でも一番の長生きなんだよ」
「ゆにぃ……」
 キラはかすれるような声で呟き、白馬に手を伸ばした。指先に、さらさらとした頬が触れる。
 白馬は一瞬だけピクリと反応したが、特に拒絶することはなかった。ただ、だんまりとして受け入れる。

「そう、そうだよ!」
 ゆるりとキラが視線を動かすと、少女が満面の笑みを浮かべていた。飛んでいきそうな勢いでぶんぶんと首を縦に振り、嬉しそうに頬を緩める。
「でね、でね! 私は、ユース、っていうの!」
「……ゆーす」
「うん! で、おじいちゃんが、ランディ」
「らんでぃ……」
「でね……? あなたのお名前は?」

 ユースとユニィが、並んで見つめてきている。少女はともかく、白馬も返答をいまかいまかと待ちわびているようだった。
 キラはゆっくりと口を開き……そこで首を傾げた。
「なまえ……?」
「え……?」
「ぼくは、なに?」
 自分の声で紡がれた言葉が、自分の中で重く響いたのを感じる。
 何かがぐずぐずと蠢き始め……その震えが、全身を這う寒気へと変貌した。

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