35.闘技場の戦い

 ニコラは、目の前で次々と沸き起こる出来事に、ついていけなかった。
 エリックの状況を把握したのが昨日の夜。混乱と動揺とで何がどうなったのかイマイチはっきりとしていないが、”貴族街”の円形闘技場で息子とキラが戦うことになったのである。
 宿で待っているよう助言を受けたのだが……無茶をしたがる息子を思うと、いても立っても居られなかった。

 シェイクに便宜を図ってもらい、闘技場にたどり着き、あいも変わらずな貴族たちの醜悪さを目にし。
 ”恥ずかしがり屋”なキラの妻が、リリィ・エルトリアであることがわかった。
 家柄もよく、地位もあり、実力と名声も得て。彼女と肩を並べられる男など居るはずもない、というのがもっぱらの噂というのに……。
 だが、何よりも気がかりだったのは。

「エリック……!」

 地面に横たわり、ピクリともしない息子だった。
 圧倒的な力量差でキラに沈められ、それから間もなく、熱気の嵐に飲み込まれたのだ。遠くから見るだけでも、肌が赤くただれているのが分かる。
 しかも、まさしく戦場の只中に放置されている。
 キラもリリィも、どこからともなく現れた”預かり傭兵”たちを相手するだけで手一杯であり、気にかける余裕もない。

 ニコラはふらふらと客席の最前にまで寄り、手すりに手をかける。
 周囲の貴族たちが怪訝そうにしているが、そんなことはどうでも良かった。
「助けに……!」
 手すりを乗り越えようとしたとき、その隣を素早く駆け抜ける影があった。
 エヴァルトだ。バンダナの端を揺らし、ひとっ飛びに手すりを乗り越えるや、猛烈な勢いで駆けていく。
 そして――なんと彼は、背後からキラに切りかかった。寸前で対処したようだが、一歩間違えれば首が飛んでいた。

 呆然としていると、手すりを掴んでいた手を誰かに握られる。
「何をしようとしているか知りませんが……これ以上は危険ですよ。踏み込まないほうが良い」
 いやに丁寧な口調の、いやに怪しげな黒フードの男だった。
 びっくりするくらい細く、白く、冷たい手。思わず振り払いたくなるほどだったが、その力は思った以上に強く、びくともしない。

「離してくれ……! あそこには息子が……っ。あんな戦いの中、気絶したままで居たらどうなるかわからない……!」
「息子? なるほど、あの少年が……しかし、駄目です。今は、本当に」
 なおも引き止めてくる男を、ニコラは睨んだ。

 闘技場での戦いは、なおも拡大するばかりだ。キラはエヴァルトに手こずり、リリィも”預かり傭兵”たちに戸惑いながら戦っている。
 戦場は土埃にまみれ、地面に倒れているエリックの姿など見えやしない。
 ニコラは懸命に目を凝らして息子の姿を探し――それを見かねたのか、フードの男は深いため息をついた。

「分かりました。援護しましょう。しかし状況は彼らにとって厳しいもの――あなたは、何も考えず、息子さんを抱えて一人でお逃げください」
「誰だか知らないが……恩に着る」
 トン、と手すりに乗った男を見上げ……ぽかんとした。
「心構エをシテおけ――サア、行クぞ」
 口調も姿も変わり果てた男は、乱暴な口調とともに闘技場に飛び降りていった。

   ○   ○   ○

 キラはエヴァルトから距離を取りつつ、感覚を研ぎ澄ました。
 身体が思い通りに動かない。”紅の炎”の熱気に当てられたせいか、それともすでに限界が来ていたせいか、至るところがズキズキと痛む。
 だが、全てが冴え渡っていた。
 目ではエヴァルトを追い、耳で音を聞き分け、肌で空気の流れを感じる。リリィがどこで何をしているかさえも把握しつつ、周りの”預かり傭兵”の足を斬っていく。

「ホンマ――」
 続けざまに攻勢を仕掛けるエヴァルトに、キラも剣を合わせた。
「その剣術! どこで習ったもんか、聞きたいもんやで」
「さあね……! それより、エヴァルト、もう少し加減をしてくれない? これでも、結構ギリギリなんだけど……!」
「甘っちょろい演技なんぞ、すぐ見抜かれる。もうちょい我慢しいや」
 拮抗していた鍔迫り合いは、またたく間に崩れ去った。グイグイと押し込まれ、頬の近くにまで剣が迫る。

「我慢、って?」
「エリックっちゅうあのガキんことは気にしなさんな、ってこと」
「どういう――」
「アカンな。あの不気味なんが動き出した――なんとか凌ぐんや!」
 エヴァルトが下がったのと同時に、キラも振り返った。
 血眼の男ブラックが、距離などないかのように、猛スピードで迫ってきた。行く手の邪魔となる”預かり傭兵”を斬り飛ばし、長い白髪を揺らめかせる。

 キラはギリギリで反応し、振るわれた剣に剣を合わせ、
「なっ……!」
 いともたやすく、弾かれた。
 油断はなかった。万全な体勢で対処したはずだった。
 だというのに、鍔迫り合いに持ち込むことも出来なかった。

「しまいだ」

 薙ぎ払われる剣。刻一刻と、腹に迫りくる。
 キラはクッと頬を膨らませ――剣を引き戻し――前のめりに突っ込んだ。
 危ういところで凶刃を防ぎつつ、ブラックの懐に潜り込む。

 形勢逆転――、
「一筋縄ではいかないようだな」
 とはいかなかった。
 急接近するや、ブラックはその姿をかき消したのだ。

「――影!」
 勢いで前のめりになる体を操り、直感的に背後を振り向く。
 すでに、白髪血眼の男が腕を振り上げていた。
 まさに、神速。
 その軌跡すら見えない。
 ほとんど反射的に剣を掲げ、降りかかる脅威を弾く。

「チッ――しつこい」
「そっちこそ!」

 キラは悲鳴を上げる身体を強引に繰り、自ら打って出た。
 薙ぎ払って、切り返し。剣を脇に引き寄せ、刺突。
 あるいは。避けて、受け流し。ときに一歩退く。
 攻めきれないまでも、紙一重で防いでいく。

 剣術はほぼ互角。勝敗を分けたのは、
「また……!」
 ”力”の差だった。
 追い込むたびに影に潜られ、背後を取られて窮地に陥る。
 幾度も続けば慣れもしたが、だからこそ集中力が散漫になった。

 その上、頭も身体も重くなる一方で、気づいたときには膝を付き、
「くそ……っ!」
 降りかかるブラックの剣を見つめるだけとなっていた。
 
 と。
「わたくしのキラに、何を!」
 視界の端から、黄金色のポニーテールが割り込んだ。
 響く、金属音。紅色に染まった剣が、ブラックの剣を阻む。
 そのさまに、キラは目を見張った。”大鬼”オーガや巨大な石岩をも焼き払ってしまう紅色の剣が、普通の剣に阻まれている。

 否――。
「黒く、染まって――ッ?」
 ぞわりと、肌が粟立つ。ブラックの握る剣の刀身が、ずずっ、と黒く染み始めた。
 リリィも危機を察知したらしく、ぐっと押し込みつつ、さらに”紅の炎”を剣に流す。

 剣の内側から猛る炎に、ブラックも一歩引き――そこへ、ポニーテールをきらめかせ、リリィが追撃をかける。
 一歩踏み込み、薙ぎ払い。
 強烈な一閃は、しかし、黒い剣に受け止められた。

「邪魔だ、リリィ・エルトリア」
「キラには指一本触れさせませんわよ!」

 リリィが構わず仕掛け続けるのを見て、キラは駆け出した。
 今の彼女では、到底かなわない。”紅の炎”の強さも、剣の苛烈さも、動きの洗練さも――何もかもが、いつもより数段劣っている。息が上がり、テンポが崩れている。
 思い当たる原因は一つ――熱気の嵐を巻き起こした”紅の炎”の暴走だ。

 キラは彼女に加勢しようとして、
「――! このタイミングで……ッ!」
 どくん、と心臓が蠢き出す。
 身体の力が抜け、膝を付き……突進してきた”預かり傭兵”にふっとばされる。

「ゔぅ……!」
「キラ!」
「人を気にしている余裕があるのか」

 地面をゴロゴロと転がり、その勢いを殺すことも出来ず、キラは地面にうずくまった。起き上がろうとするも、突き立てた腕は力なく崩れ、頬を打つ。
 舞う土埃に、迫りくる幾人もの人影。その合間で、紅と漆黒が交差する。
 状況は最悪だった。周りを囲まれ、エヴァルトという助力があっても、リリィですら押し切れないブラックという壁が立ちふさがる。

 心臓を、冷たい手で、きゅっと絞られる。
 だめだ。無理だ。何も出来ない。気持ち悪い。吐きそう。
 あらゆる弱音が脳裏に浮かび、口から漏れ出そうになる。
 そんなとき。

〈――なさい〉

 誰かの声が。
「――クゥっ!」
 リリィのうめき声と重なった。

 決して思い過ごしなどではない。
 耳元で。頭の中で。心の奥底で。
 何かが、何者かが。囁いてくる。

〈さあ、代わりなさい〉

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