20.夫婦として

 七年前、王都において突発的に発生した帝国軍との軍事衝突――”王都防衛戦”。
 当時、非武装地帯に指定された港町バルクをはさみ、王国と帝国は睨み合っていたのだが……帝国軍に侵略される直前、王国で内戦が勃発しようとしていた。

 きっかけは、エマール家が所有するエマール領だった。
 ”御三家”と称される公爵家の一つであるエマールは、王都にほど近い場所に領地を持ち、独自の管理を認められている。
 この管理の仕方が、問題となったのだ。
 それはひとえに、領内への干渉の難しさにあった。領内への進入には正当な理由が必要となり、これがなければ王家ですらも門前払いとなっていた。
 視察も監査も「必要ないから」という理由で、公爵家の権力を使って拒み続け……この傍若無人とも言える振る舞いに、王都で”反エマール派”が誕生した。

 そこからは、加速度的に事態が悪化した。
 ”エマール派”と”反エマール派”の対立が表面化し……ついに、”反エマール派”により王国騎士軍が動かされることとなった。
 最悪だったのは、エマール領への進軍は、竜ノ騎士団支部が帝国軍に襲撃されている時期と重なっていたことだった。
 これにより王都に大きな隙ができ、帝国軍に進軍され……”王国一の女剣士”と呼ばれた女騎士の死によって、戦いは幕を閉じた。
 ”王都防衛戦”。この直前に起こった”エマール内乱”は、王国を乗っ取らんとするエマール公爵が帝国と結託し引き起こした……そう噂されている。

 ガタガタと揺れながら、草原をゆく馬車。車を退くのは二頭の馬であり、そのうちの一頭は、真っ白でつややかな毛並みを持つ美しい馬だった。
 ――ケッ、なんでこの俺が家畜みてえなことを……!
 口は悪いが。
 キラは頭の中に響く幻聴に笑いそうになり、同時に、緊張で口が引きつりそうになる。
 腕に絡みつくようにして隣に座るリリィが、もの凄まじく不機嫌なのだ。外套で体を隠し、更にはフードで頭まで覆っているため、その表情すら見えない。

「あ、あの、リリィ? どうしたの?」
「……何でもありませんわ」
「でも……なにかあるでしょ?」
「なんでもありません。本当に。……汚いエマール領に足を踏み込む覚悟を決めているだけです。心を押し殺しさえすれば、なんともないはずですわ」

 ぶつぶつと呟くリリィに、キラはそれ以上何も言えず、前にいるエヴァルトの背中を見た。御者席に座った彼は、なぜだか愛馬の方からのびる手綱だけを握っていた。
「少年。この白馬、なんなん? 手綱握るだけでめっちゃ睨んでくんねんけど。おもわず手放してもたやん」
 ――てめえに指示される覚えはねえんだよ、このエセ野郎!
 ブルルン、と鼻を鳴らすユニィ。

「こわい〜……。御者、代わって?」
「そうしてあげたいのは山々だけど……」
「なら! どうせあんたが御者席に座ることになんねんで。行商人夫婦なんやし。別に護衛の俺が御者やっててもええっちゃええけど……この馬怖いねん!」
「分かったけど、今は……。リリィが不機嫌だし、僕もあんまり離れたくないと言うか」
「ケッ! 夫婦”役”っちゅうのに、ホンマにいちゃいちゃしよってからに!」
「これはイチャイチャっていうのかな……? とりあえず、向かってるのはエマール領だし、リリィも辛いみたいだから……。キレたら何が起こるか」
「”竜殺し”の”紅の炎”……おし、少年。俺が御者のままエマール領に入るわ」

 キラはほっと息をつき、再度リリィの様子をうかがった。
 フードを目深にかぶる彼女は、その顔を上げることはない。だが、巻き付かれた腕から、彼女の身体が震えているのが分かる。
 緊張でも恐怖でもなく、怒りでどうにかなりそうなのだ。
 積もり積もったものがあるのだろう。しかし、王都には帝国軍の影が迫り、すでに一刻の猶予もない……エマールの私怨を振り払い、彼女は向かわねばならない。
 でなければ、絶対に後悔してしまう。
 リリィ・エルトリアは、立ち上がることもできなくなってしまう。

「僕ら、夫婦だってさ。……じゃあ、二人で頑張らなきゃね?」
 リリィは、取り立てて反応することはなかった。
 だが、言葉は届いていたらしかった。ちょこんと、肩に頭を預けてくる。
 そんなちょっとしたことでも嬉しい反面、彼女の傷の深さの表れである気がして……キラは、傍にあった彼女の手を固く握った。
 遅れて、握り返される。

「ああ。あと、ユニィもいるよ。いざってときは全部任せよう。きっと帝国軍も蹴散らしてくれるよ――文字通り」
 ――ああっ? クソが!
「……これは二人だけの内緒だけど、実はユニィ、しゃべるんだ。あんなきれいな白馬なのに、超口悪い。びっくりだよ」
「……ふふ」

 どうやら、沈んでいた気持ちが少しは晴れたらしい。うつむきがちだった顔をさらに下に向け、必死に笑いをこらえている。
 ついには、ぐりぐりと目元を二の腕に押し付け……涙や笑いや恥ずかしさを拭おうとした。

「もう、キラったら。そんな冗談、誰にも通じませんわよ?」
「え、や、ちがっ! 冗談じゃなくて、これは告げ口……!」
 ――ハッ、ざまみろ、嘘つき野郎!
「ユニィ! 君ってやつは!」
 ブルルンっ、と笑うユニィに、怒鳴るキラ。
 そして、とうとうこらえきれずにお腹を抱えていっぱいに笑うリリィ。
「ランディ殿に似てきましたわね」
「こんなところが似ても……!」
「愉快やなあ、少年! 馬と喧嘩するて、初めて見たで!」

 先程までの微妙な空気感はどこへやら。馬車の中は和気あいあいとした雰囲気に満ち溢れ、どんな憂鬱さえもふっとばしてしまった。
 憤慨していたキラも、次第に頬が緩んで噴き出し……しばらくの間、わけもなくリリィとエヴァルトとユニィと笑い合っていた。
「あ〜、笑った笑った。――おお、こうしとるうちに、もうじきエマール領や」

 キラはリリィと一緒になって、御者席の近くにまで移動し、外を見てみる。
 丘の頂に到達した馬車からは、エマール領の領門を見下ろすことが出来た。
 延々と続いていたであろう草原が、壁で区切られている。堅牢な石造りの境界線で、エマール領の内と外とを区切っているのだ。
 その壁に刻まれるようにして、門が構えられている。そこから人や馬車で出来た長蛇の列が伸び、検問の厳しさが伺える。中には、列の両側にテントを張って待機している人たちも居た。

「この分やと、日が落ちるまで時間かかりそうやな……。まあ、このうちに様々確認しとこうか。な、奥さん?」
 実際にエマール領の実体を目の当たりにしたリリィの空気を察して、エヴァルトが陽気な声で言った。
 リリィは、かっ、と顔を赤くし、
「からかわないでくださいまし!」
 ついには、ボンッ、と発火した。

 いきなりのことに、さしものエヴァルトも驚いたようで……。
「そ、そないなことになるんかいな……」
「だって……!」
「そんないちいち反応しよったら、あんたがリリィ・エルトリアやってバレるで。あんたにとってのエマールがそうであるように、エマールにとってもあんたの存在は面倒なはずや。いくら、息子が婚約者候補となったというてもな」

 リリィはグルグルと喉の奥でうなりながらも、神妙にして頷いた。
「……分かってますわよ」
「もう一度釘を刺すが。あんたは正体を知られちゃならん。騎士らしく、そして、貴族らしくもあっちゃいかんのや。何を見ようと、何が起ころうと……全部飲み込まな、王都へ向かわれへんで?」
「分かっています」
「ってことで、お嬢さんは必然的に会話はできない状態になる。まあ、”超恥ずかしがり屋”な嫁……てなとこやろ。頑張れな、少年」

 隣に座るリリィが静かな覚悟を決め……そのさまを見守っていたキラは、遅れてエヴァルトの背中を見た。
「え?」
「ぼやっとしとったらあかんで。夫なんやから、しゃんとせんと」
「夫……夫……夫。ってなんだろ?」
「知らん!」
 クワッと食い気味に切り捨てられ、キラはリリィを見た。
 彼女は、目があうやいなや、嬉しそうにニコリと微笑んだ。その可憐さと愛らしさにしばらく見惚れていると、こてん、と首をかしげる。
「……とりあえず、リリィのために頑張ろうかな」
「お願いいたしますわ、あなた」
「くぁ! 俺の後ろでいちゃいちゃしなさんな!」

 行列が遅々として進まない中、キラとリリィは着実に準備を進めていた。
 行商人夫婦という役目を事実に近づけるため、木箱に収められた商品の内容を覚え。さらにおすすめの品や手入れの仕方も教えてもらった。
 それらを脳に擦り付けるようにリリィがつぶやく一方で、キラは御者席での馬の扱い方を教わった。
 そうするうちにみるみる日が落ちていき……空がオレンジ色に染まる頃には、行列もギュッと縮まり、あともう二組というところまで迫っていた。

「はあ〜……しかしまあ、こんだけ待たせといて、やっとるんはただの問答かいな。チェックはどないなっとんねん」
 馬車から出て、愛馬の毛並みをその手で堪能しつつ、エヴァルトが小さくぼやく。
「見たところ、積み荷が没収されている様子はございませんわね」
 外套を頭まですっぽりかぶったリリィが、背後でボソボソと言う。
「傭兵を募集してるから、検問がゆるくなったのかな? 相当な数を雇うんだったら、それだけ人も集まるだろうし……時間がかかるよね」
 ――俺が全部抱えて壁飛び越えたほうが早いだろ
「……目立つよ、それは」

 ユニィにだけ聞こえるようにつぶやいたキラは、二つの手綱を握って御者席に座っていた。
 色々と話を重ねるうちに、やはり行商人らしく振る舞うためには、御者席に座っていたほうが格好がつくという結論に至ったのだ。
 おかげでキラは、たびたび頭の中に響く幻聴に苦労することになっていた。

「そういや、結構な報酬に目を引かれがちやが、募集人数もとんでもない数やったな。軍隊でも作るんかっちゅうくらいの」
「ますます怪しいですわね。目的はともかく、一体どこから資金が……。エヴァルト、あなたはそういうことを疑いはしませんでしたの?」
「正直、微妙やとは思ったで? けど、募集をかけとるんは一国の公爵。王族とも血がつながる一族やで。こんなあからさまな嘘つくことはないんちゃうか」
「まあ、たしかに……。豚にしては上等なプライドは持ち合わせていますからね」
 こともなげに言う辛辣さに、キラはぶふっと噴いた。

「リリィ、エマール家のことになると辛辣だよね」
「あら、そうでしたか?」
「無自覚……! エマール領内では我慢しないと。”超恥ずかしがり屋さん”だから、めったにしゃべることはないだろうけど」
「我慢できなければ、キラにだけつぶやきますわよ」
「……笑っちゃうから止めてね」

「ふふ。――しかし、やはり疑問ですわね。一体どこからお金が出ているのでしょうか。領内で作った農作物で賄うことは出来ないでしょうし」
「協力者がおるんやろ。それか支持者。どっちにしろ、報酬額が嘘であれば、集めた傭兵が暴れまわるで。自分とこの領地はあらされたくないやろ、さすがに」
「どこか街についたら、王都に向けて手紙を出しましょうか」

 リリィの言葉に、エヴァルトが応えることはなかった。キラもだんまりとして返事をせず、ただじっと前の方を向いておく。
 前に居た二組の馬車が、検問を終えてエマール領内に入っていったのだ。
 キラは慎重に二頭の馬を操り前進させ、その間にエヴァルトが門兵に声をかける。
「お疲れさん。傭兵も相手するっちゅうのに、随分と人手が少ないな?」
 領の門に待機している門番は、二人だけだった。一人は検問には参加せず、門の向こう側で何やら待機している。

「そう出来る理由があるからだ」
 単にそれだけ言い放つ兵士は、その顔つきから剛直な男であることが伺えた。
 いかつくゴツゴツとした顔つきは、一つたりとも緩むことがない。無精髭に隠れた口元は引き結ばれ、力強い青色の眼は眉と一緒になってつり上がっている。
「正規の兵士なのでしょうか……しかしそれにしては……」
 お世辞にも、兵士と言えるような格好はしていなかった。体を守る鎧は革製で、腰にぶら下がる剣は貧相。鞘さえなく、むき出しの刃はぼろぼろだった。

「リ、リリィ。”超恥ずかしがり屋”さんだからね」
「……あ」
 ちらりと兵士の目が向けられ、キラがハラハラとしているところを、エヴァルトがいつもの軽快な口調で助けてくれる。
 赤いバンダナの上から額をかきつつ、ぺらぺらとしゃべる。

「あっちの御者席に座ってるんは、俺の依頼人の行商人や。後ろの方には奥さんが乗っててな? えらい別嬪なんやけど、超のつくほど恥ずかしがり屋やねん。やから、ほれ、そないに怖い目で睨まんといてあげて」
「……睨んだつもりはないが。で、君は冒険者か?」
「いや、傭兵や。村の酒場で仕事探ししよったら、ちょうどその行商人夫婦がおってな。この街まで護衛をおねがいしたい、いうて。で、俺もこのエマール領の……領主が住んどる……あー、リモンいうたか? そこで傭兵募集されてるっちゅうんで、そら奇遇や! いうて」

「どうでもいいが、訛りが激しいな。もう少しなんとかならないのか」
「うん? そらすまんな。けど抜けへんのよ、堪忍な」
「……まあいい。傭兵と行商人だな。なら――」
「ところで、や」
 エヴァルトは兵士の言葉を遮り、自分のペースに持ち込んだ。息継ぎの合間にその独特な口調を差し込み、相手が僅かに怯んだすきに、ぼそぼそと言葉を注ぎ込む。

「聞いたで。領主さんはずいぶんひどいんやろ? あんたを見ればすぐに分かる。鎧も剣も、ろくに支給されん。やのに、大量の傭兵を雇うときた――どういうこっちゃ! て思うとるんちゃうんか?」
「何が言いたい……?」
「こうみえて、俺も色んな所にツテがあるんよ。あんた、奥さんは? 子どもは? おるなあ、その顔つき。せやったら、こないな場所アカンで。はよ出ていかな――力貸すさかい。そん代わり、ここはスルーしてくれへんか」
「しかし……!」
「信じられへん? したら、ほれ、俺の剣やるわ。一級品やが、まあ、ものに頼るんは剣士の恥や。街にも普通に剣は売っとるやろ? せっかく傭兵たちが集まるんやからな」

 エヴァルトは半ば強引に剣を兵士に押し付け……兵士は、突き返すことも出来ずに、おずおずと剣を握った。
 屈強でいかつい顔が、葛藤により一層いかめしくなっている。
 眉間や微量や瞼に皺の寄る苦悶の目つきが、ふと動き――キラはその青い眼と目があった。
「大丈夫ですよ」
 キラは、リリィやランディを思い浮かべつつ、笑顔を作ってみた。
 頬も口も若干引きつってしまったが、兵士にとっては救いとなったのか、力の入っていた表情に緩みが出た。

「私はニコラというものだ」
「エヴァルトや。よろしゅう」
「……領内の通行手形だ。エマールの直接の保証となる。役人に目をつけられても、なんとかなるだろう」
「様、はつけへんのや。ようわかるで」
「からかうな。それと……これが領内の地図。”ハイデン”という村にいけ。二時間もあればつくはずだ。もしも騙したならば……」
「ンなこすいことせえへんがな。ほなまた」
 エヴァルトは手形と地図を受け取り、飄々とした態度で門をくぐる。
 リリィがくいっと服を引っ張ってきたことで、キラははっとして二頭の馬に手綱で合図を出した。

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