音もなく、突如として。闇夜から現れたドラゴンが、前足の鋭い爪で服を引っ掛けてきたのだ。
徐々に地面から引き剥がされる――高いところから落とされればひとたまりもない――手をくれになる前に”雷”を――。
キラは身体を捻って右腕を突き出し……唖然とした。
――グゥォォオアアッッ!
雄叫びを上げるドラゴンの様子が、どこかおかしいように見えた。
巨躯を操り空中を羽ばたく姿、長い首をもたげる姿勢、牙の隙間から漏れ出る炎。その恐ろしさも迫力も、一つとして変わるところはない。
だというのに。夜空を舞おうと飛び立つそのさまが、ひどく苦しそうに思えた。
とっさに右腕を引っ込め、身をよじる。ドラゴンが爪で突き刺したのは、正確に言えばグレーのコート――ジタバタともがくと、セーターもろとも脱ぎ捨てることができた。
すると今度は浮遊感がなくなり、地面へ吸い寄せられる。城門を越えて、”四角広場”まで投げ出される。
ぎりぎりのところで姿勢を整え、着地とともに前転。衝撃が全身を駆け巡るも、”強靭な身体”はそんなことでは傷つかなかった。
再び走り出そうとして、
「こんな時に……! 空に雲はないじゃないかッ!」
キラはうごめく心臓に呻きつつ、少しばかり膝をついた。
怒りを握りこぶしに変えて膝をたたき、次の瞬間には、その場へ押し止めるような鼓動を振り払って走り出す。
「”力”は東から――この感じ、まだブラックは帝都についてない」
”闇の神力”は、帝都を中心として展開されているわけではなかった。
まるで、雲が急激に発達して、空を覆い尽くすかのように。東側からかなりの勢いで”闇”が伸びてきているのだ。
「これ以上街を巻き込めない――ってのに!」
”四角広場”を突き抜け、”六角広場”へ繋がる階段を、ひとっ飛びに飛び降りた。
ドラゴンの放つ灼熱のブレスが、冷たい空気を焦がしながら迫ってきたのだ。
ぎりぎり飲み込まれるところを、すんでのところで回避する。
再び前転で衝撃を和らげ、焦げた白シャツを叩きながら前へ進む。
「とにかく人のいないとこに――でも――ッ」
海からの砲撃音をきっかけとした、海賊たちの襲撃騒ぎ。帝都の門を押し破り入り込んだ恐怖は、尾を引く混乱を巻き起こしていた。
その騒ぎに乗じた暴動も発生し、とくに”八角地区”の至るところから、火の手や黒煙や怒号が轟いているのである。
そして、いくら皇帝の鶴の一声があろうとも、現場の帝国兵士たちの耳に届くはずもなく――。
「やつだ! あの黒髪の!」
”六角広場”に降りたキラは、黒染めの騎士集団を前にして、進路を変えざるを得なかった。
階段を降りるのをあきらめて、とにかく人手の薄いところへ一直線に走り出す。
だが、騎士たちもそう簡単に見逃してくれるわけがなかった。”身体強化”の魔法で、一人の兵士が先回りをしていく手を阻む。
「人のいないとこ――街の外なら……!」
キラはつぶやきつつも、真っすぐに突っ込んだ。
鯉口を切り、柄に右手を添える。
「止まれ! さもないと――」
「君の方こそ!」
振り抜かれる剣は、力もあり速さもある。
魔法で強化された剣筋を見極め、抜刀。
最小限でその軌道をそらした。
「くっ……!」
兵士は喉を鳴らして覚悟を決め――しかし、キラは振り抜いた刀を返すことはなかった。
その隣を走り抜け、唖然とする兵士に向かって声の限り叫ぶ。
「戦争は終わった! けど――まだ戦いが続く! できる限り避難をッ!」
兵士の耳に届いたかはわからない。
ただ、魔法を使えばすぐに追ってこれるのは確かだ。実際に、ドラゴンの炎以外にも、様々な魔法が追いかけてきている。
肌を伝うピリピリとした感覚や直感に従って避け続け……ようやく、”六角地区”の端っこが見えてきた。
帝都独特の、角数が小さくなるごとにせり上がっている街の構造。これこそがキラにとっての唯一の逃げ道だった。
「――ッ!」
飛び降りる先は”八角地区”。木造建ての多く連なる一帯の屋根。
覚悟はしていたが、刹那に訪れる滞空時間に肝を冷やした。
二階分はある高さを飛び――それに合わせて火球が飛来し――ほとんど一緒に屋根に着地する。
傾斜のある屋根に足がついた途端、爆風ではじき出され、更に下へ。
なんとか受け身をとったものの、石畳に叩きつけられた衝撃は、身体も脳も揺らした。数秒間、ろくに動くこともできず、ただ呻くしかなかった。
「う、ゔ……っ」
しかも。
見計らったかのように、心臓の鼓動が身体中を巡った。胸の中心だけでなく、全身の血液が沸騰しそうなほどに唸りを上げていた。
身体が乗っ取られる。そう感じ取り、無理を通してでも立ち上がった。
「まだ……!」
キラはくらりとしつつ、しゃにむに走り出した。
直後、背後で冷たい空気を引き裂く爆発音が轟き、その爆風に押されて大きな通りに転がり出る。
「ここじゃだめだ……! こんなところで暴れられたら……」
大通りはかなりの広さがあるにも関わらず、それぞれの家から飛び出た人たちでいっぱいになっていた。
悲鳴と恐怖が縦横無尽に駆け巡り、ドラゴンが現れたことでより濃密なものとなる。
キラは人の波の中を駆け抜け――ハッとして上空を振り向いた。
ドラゴンが火球を放とうと、牙の内側に力を溜め込んでいる。
人通りの少ない脇道へ抜けようとしたところで、躊躇なく放たれた。その矛先はブレ、道端で腰を抜かした男へ向かう。
「こンの――ッ」
ほとんど何も考えていなかった。
ただ、一途に。身を翻す。
すると、不思議なことが起こった。
身体を乗っ取ろうと画策していた蠢きが、ピタリと止まったのだ。それどころか、男を飲み込もうとする火球に向かって、一緒になって駆け込む。
構える刀も、見極めた軌道も、すべてが”誰か”と重なっていく。
「――ッ?」
刀を振り抜く直前、得体のしれぬものが身体の内側を駆け巡った。
その激流はやがて刀身へと収束し――白銀の刀身を”雷”が包む。
いきなりの異変にキラは”センゴの刀”を取り落しそうになるも、”誰か”が代わりにギュッと握りしめていた。
そうして、一閃。
刃は”雷”とともに炎を引き裂き、飲み込み、消し去ってしまった。
何が起こったのかと、疑問を抱く暇さえない。ドラゴンは、再び炎を牙の内側で溜め込んでいる。
キラは男の腕を掴み、
「ほら、立って! 行ってください!」
強引に立ち上がらせて、その背中を押した。
それと同時に、ドラゴンへ背中を向ける。狭い脇道へと飛び込むと、火球が放たれた。
迫る熱気が、家屋や石畳を砕く。石塊が飛び散り、木片が降り注ぐ。時に刀で振り払いつつ、がむしゃらに足を動かした。
角を曲がり、真っすぐ進み、また角を曲がる。
そうしていると、帝都を囲う背の高い防壁が見えてきた。
一気に街の外まで走りたかったが、そんな思いとは裏腹に足が止まってしまった。
「ハァ、ハァ……。この辺は、あまり人がいない……良かった」
ずさんな増築や改築で複雑に入り乱れた家々の間を走り、更には裏路地へ逃げ込んだからか、上空のドラゴンは姿を見失ったようだった。
キラは家屋の陰からその様子を見てホッとし……泥の地面を踏みしめる金属音が近づいたのを、敏感に察知した。
「帝国兵士……!」
「いたぞ、こっちだ!」
直後、呼子笛が甲高く空へと舞い響く。
キラは焦りをつのらせ、反射的に走り出した。
敵は一人。他の兵士が駆けつけるまでに無力化すれば……。
「貴様、止まれ!」
抜きさった剣を右手で構え、左手に炎を宿す帝国兵士。
「君らこそ、もう止めたらどうだ!」
「何を……ッ!」
放たれた炎をギリギリにまで引きつけ、避ける。
兵士は一歩後ずさったが、キラにとっては大きな隙でしかなかった。
「観念するのは貴様だ、少年! 我々は――」
構えた剣を刀で弾き、そのまま懐へ踏み込み、みぞおちめがけて強打する。
「――ばけもの、め……」
崩れ落ちる兵士に対して、キラはふんと鼻を鳴らした。
「……化け物って、普通あっちのこと言うでしょ」
鳴らされた警笛を聞きつけたドラゴンが、翼をひろげていた。
羽ばたく巨体の陰からは、いくつもの黒煙と火の手が見えた。火球で、あるいは凶悪なブレスで、どこかの誰かの家が沢山燃やされたのだ。
街の外までは後少し。だが、後少しの距離で、さらなる犠牲が生まれる。
逃げることは許されないのだと、キラは刀を強く握った。
その時、
「ぽっぽっぽー、はとぽっぽー」
拍子抜けするほどに、陽気で音痴な歌声が舞い踊った。
あまりの間抜けな音調に困惑していると、ドラゴンの背中から何かが現れた。紅の鱗の隙間から絶えず噴き出す火の粉に、その姿が照らされる。
「……インコ?」
鮮やかな青色が特徴的な小鳥だった。恐れ知らずにも、ドラゴンの周りをぱたぱたと羽ばたき、最終的に鱗が激しく割れた額にちょこんと乗っかる。
「みーつけたー。……って、ドラゴンが追ってたから、分かってたけどねー」
「……喋った」
まるで人間が話すように言葉を紡ぐ小鳥に、ますます困惑してしまう。その言葉を遮らないようおとなしく羽ばたいているドラゴンには、もはや笑ってしまいそうだった。
「しゃべるよー、そりゃー。まー、鳥に代弁してもらってるけどねー」
ドラゴンの背中から、また別の姿が現れた。
体格に見合わない大きなローブをかぶっているせいで、はっきりと認識するまでに時間がかかったが……子供のようだった。
フードの暗がりでその顔つきは判別がつかず、ピクリとも動かないために本当に子供なのかもわからない。
だが、その人物がインコを操っているのは確からしかった。
「……君は?」
「ロキ。知ってるー?」
「知ってる。”五傑”のロキ。……”操りの神力”をもつ”授かりし者”」
「じゃー、話がはやーい。戦うよー」
「一応、聞いとくけどさ。君たちのトップ……皇帝は、戦争はおしまいだって公言した。その上で、戦うつもり?」
「馬鹿かなー。そのためにいるんじゃーん」
直感したとおり。ロキには常識が通用しなかった。
インコが夜空へ向かって飛び立ち、ドラゴンがそれに合わせて空気を目いっぱいに吸い込んだ――ところで、巨躯が”闇”に飲み込まれて消えた。
「このタイミングー、くそ馬鹿かなー」
ローブ姿のロキが、足場を失ったことでふわりと浮く。が、落下はしなかった。
石畳を突き破って出てきた岩の柱が、代わりの足場となったのだ。
キラはその”操りの神力”の強力さに気を引き締めつつ、更にそれを上回る”力”の圧力に奥歯を噛み締めた。
「手を出すなと言ったはずだ。文句ならそのインコを使って自分に言え」
「むかつく皮肉ー」
”闇”を渡って、ブラックが現れた。
レオナルドとの修行で戦った幻と、殆ど変わらない。
仮面のような冷酷な面持ち、血のような赤い瞳、透き通るような白い髪。真っ黒なコートに身を包む姿は、まさに闇の住人だった。
だが、腰に携える剣だけは、なにやら様子が違っていた。
様子が違うことに、気づいてしまった。
「戦争がどうとか言っていたな」
明確な敵意と殺気……それらが、一陣の風となって吹き付けてきているようだった。
恐怖の塊のようなそれにたいして、真っ向から受けて立つ。背中を向けるつもりも、一歩退くつもりもない。
あるのは、ただ……。
「皇帝だろうがなんだろうが、止めるといって止められると思うか」
「……このまま続けば、どっちかが無くなるまで終わらない」
「過去の精算をしなければならんという話だ。二百年の因縁をなかったことにして前に進むなど、ありえない」
「それでも、立ち止まってはいられないんだよ。止まってたら、前が見えなくなる――怖くて一歩が踏み出せない臆病者になる」
「……師が師なら、弟子も弟子だな」
「……どういう意味」
ブラックが腰に携えていた剣を引き抜く。白銀の刀身が、黒く染まっていく。
「やつもまた、過去を見ない。――その傲慢さが、奴自身の命を奪った」
キラは構えていた刀を低く寝かせた。
唸りだす心臓から怒りが漏れ、刀に巻き付く”雷”となって現れる。
「君の方こそ、先を見ようとしない。――あの人の寛容さが、誰をも救ったんだ!」
押し寄せてくる”闇”に、溢れ出す”雷”。
霧のごとく膨れ上がり、飲み込もうとする”力”。それに対し、縦横無尽に暴れ回る”力”が、その内側から貪り食らう。
強大な二つの力が、一瞬にしてその場を二つに割った。