49.カギ

 ――エマール領リモン”貴族街”、崩壊した闘技場の地下にて。
「あァ、アア……! 何ということダ!」
 薄暗い洞窟で、”三人のキサイ”であるベルゼの怨嗟の声がうごめいていた。
 彼の目の前にあるのは、ようやくの思いで掘り起こした研究室――先の闘技場の崩落の際、用心深く地下に設けたために巻き込まれたベルゼの私室だった。

 そこは、彼にとっての心臓といっていい場所だった。何しろ、今回の”預かり傭兵”の秘密がすべて収められていたのだ。
 だからこそ、崩落が起きた時にはベルゼも肝を冷やした。
 人手をありったけかき集め、時には脅し文句で作業を進めさせ、研究室に至るまで埋もれていた通路を掘り起こし――やっと研究室に再び足を踏み入れたのである。

「こんな……ッ!」

 天井の崩落に押しつぶされていたのならば、まだよかった。悲嘆にくれ、これまでの苦労に思いをはせ……重い腰を上げることができる。
 だが、ベルゼの目の前にある研究室は、不思議なくらいに無事だった。
 大きな岩石が積もっていることもなく、それどころか、天井にはヒビすら入っていない。
 崩落には巻き込まれていなかったのだと悟るのに、少しも時間がかからなかった。

「誰ダ……誰ダ! 私の聖地を土足で踏みにじった輩は!」

 ベルゼの私室は、見事なまでに荒らされていた。
 棚に詰めた本や資料も、卓上に並べていた瓶も、机の引き出しの中身も。すべてがごちゃ混ぜになって床に散乱していた。
 これが意味するところは、何者かが盗みに入ったということ。そのうえで、さも闘技場の崩落に巻き込まれたかのように、通路をがれきまみれにしたのだ。

 ベルゼはふらりふらりとよろつく体で、テーブルに近寄りよりかかった。
 彼はまだ若いにもかかわらず、木の枝のように細い体を猫背で曲げていた。床に膝をつくさまは悲嘆にくれる老人であり、テーブルの引き出しを探る仕草は路傍で物乞いをするそれだった。

「アぁ……! よりによって! よりにもよって!」
 年相応に艶やかな黒髪には、縮れた白髪が目立ち。こけた頬に干からびた唇、落ちくぼんだ目は、およそその年で見せる疲弊ぶりではなかった。
「無い! やはり無い! なぜ、だれが……!」
 老人のように枯れてしまっていたベルゼは、ぴたりと動きを止めた。
 その一方で、くぼんだ眼窩でぎょろぎょろと目が動き……その揺れが収まり始めると同時に、彼の身体から活気が湧き出てきた。

 むくりと顔を上げ、テーブルと椅子を頼りに、立ち上がる。
 枝のような手と腕には力が入り、立ち上がったときには老人のような弱弱しい姿はなくなっていた。
「そうか……! ブラックか! ヤツだ――ヤツしかいない! 親切にもこの私がアドバイスしてやったのに、歯向かったのカ! 愚か者が!」

 がつがつと地団太を踏み、その足を思い切り振り上げ、椅子をけ飛ばす。
 棚にぶつかり、いくつか残っていた本がばらばらと落ちていく。
 その様には見向きもせずに部屋を出ようとしたところ、行く手を阻む人物に気づいて鼻を鳴らした。

「マーカス・エマール。何の用ダネ――今すこぶる機嫌が悪いんダガ」
「そんなことは俺の知ったことではない。しかし、まあ……ずいぶんな荒れようだな?」
「……口の利き方に気をつけろヨ、エマール」
 ベルゼは目の前の男をにらみつけ、低い声で忠告するものの、それ以上は踏み込まなかった。

 癖のある金髪や鼻のとがり方やあごの形。あらゆる点で父親のシーザー・エマールを思い出させるが、その体つきだけは似ても似つかない。
 百八十以上はある高身長に、その体をしっかりと支える筋肉。色使いの不気味な派手な衣装に身を包んでいるものの、しっかりとした姿勢を見るだけで、相当な強者であると想像できる。
 油断のならない人物だった。

「君という人間が理解できないヨ。なぜあんな下賤な男の息子のままでいるか……理解しかねル」
「ハッ、貴様こそ言葉に気をつけろ。俺は殺すと思えば実行する男だ」
「……で。何の用ダネ。キミと無駄話をするほど、私も暇ではないガ」
「お互い様だ。時間を割いて貴様の要望を汲んでやったんだ」
「フン、あのガイアとかいう不届き者の傭兵カ……。まさか、人を顎で使うような人間が、自ら探ったとは驚きだが……報告というなら、資料にまとめてほしいものダ」
「言ったろう。時間を割いてやったんだ、二度手間はごめんだ。――で、聞きたいのか、聞きたくないのか」

 ベルゼは舌打ちをして、顎をしゃくって合図した。
「まあ、そう成果は多くない。”赤い本を持つ何者か”と接触していただけ。今も監視はつけているが、特に目立った行動はしていない」
「フン、なんダ。それくらいの報告ならば、それこそ羊皮紙に書いてよこしたまえ。――よもや、私の研究室を物色するついでではなかろうな?」
「貴様の研究に興味などあるものか」
「……ホウ? キミの父親はずいぶんと”預かり傭兵”を気に入ってくれタガ? キミは違うというのカネ?」
 ベルゼはマーカスの顔をまじまじと観察し、その目がわずかながらに細くなったのを見て取った

「キミの行動はイチイチおかしい。すでに王都へ仕掛けている最中――だというのに、指揮官であるキミはここにいる。あのガイアもダ。あれほどの戦力、戦線へ向かわせないとは一体どういう腹積もりカネ?」
「……貴様は、どれくらい帝国について知っている?」
「ン? あいにく、私は戦争やらに興味がないのでネ。七年前、ロキという新しい戦力が王都で暴れまわったと、帝都で騒ぎになっていたのは記憶にあるガ」
「帝国からの使者である貴様が、その程度の認識とはな」

「私はただ単に実験をしていたいだけサ。で……質問の意図は?」
「今回は、いわば前哨戦……われらエマールの決意の固さを見せつける戦いよ。有象無象の傭兵たちを仕向けたのも、そのためだ」
「ア~、捨て駒。”預かり傭兵”たちを待機させたのも、今は様子見だからカ」
「それと、帝国軍の状況も加味した作戦だ。何を出し渋っているのか知らんが、帝国から派遣された兵は少ない。開戦すぐに全兵力を投入するわけにもいかん」

「ホ~ウ? これはまたイロイロな思惑が渦巻いているヨウダ。しかし――その温存するという判断、今回に限っては、キミたちに運が向いているらしい。いや、首の皮一枚つながったというべきか」
「……何の話だ?」
「もう”預かり傭兵”は生み出せない。ガイア以上の不届き者が、盗んだのサ……”血”をね」
「フン……。それでこの散らかりようか。ご苦労なことだ」
「アぁ。出し抜かれた気分ダヨ。ブラックめ……!」
「……? 奴ならこんな回りくどいことせずとも、いつでも盗み出せそうなものだが。なにせ、闇が縄張りだ……この研究室に至るまでの通路は暗い。――とにかく、報告は済ませた。何か動きがあれば、今度は監視役が知らせにいく手筈となっている」

 ろくに返事を聞かずに、その場を立ち去るマーカス。
 ベルゼもその姿には目もくれず、荒れた私室を振り返っていた。
「そうだ……。ヤツには私と敵対するメリットが少ない。何より、私を殺せば、もう一生取り戻せないとわかっているはず……」
 体と一緒に、研究室に向き直る。
「では、いったい誰が……。何としてでも――イイヤ、待て。待てよ……そうか……そうか――もういらないのか! そうだったノダ!」
 体の底から湧き上がる興奮。それを抑えきれずにベルゼは吠えるようにして笑い……その不気味な響きは、地下通路で気味悪く反響していた。
「ガイア! そうだ、ガイアだ! ヤツが私の次なるカギとなるのか!」

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