キラは、いきなり盛大なくしゃみをかました。
というのも、独特な潮の香りを運ぶ冷たい風が、一気に身体を包み込んだのだ。
「寒いとは忠告されたけど――こんなになんて……!」
それもそのはず。
辺りは一面銀世界だった。
空は青く晴れ渡っているものの、その陽光がひどく遠く感じるほどに、地上は寒さに見舞われている。のっぺりと白い雪が膝の下近くにまで積り、とける気配が微塵もない。
「ブーツ……もっと分厚いのもらっとけばよかった……!」
魔法陣が設けられたのは森の中だった。
無数の木々が辺りを取り囲んでいるものの、その殆どが背の高い針葉樹林のおかげで、”グエストの村”の森のように方向感覚まで狂うようなことはなかった。空も見えれば太陽も見え、木々が密集して行き先がさえぎられるということがない。
その点で言えば、いくらか気楽ではあったが……何より尋常でない寒さに、早くも降参しそうだった。
「耳が取れる……。あ、そっか、そのためのフード……!」
暖かさに頭が包まれるも、それでもぶるぶるカタカタ。
首元から刺すように冷たい風が滑り込む上、手袋のしていない手はすでにかじかんでいた。刀を握るのさえ億劫になるほど、力が入らない。
ポケットに手を突っ込み、取れない冷たさにため息を付いて……息の白さに驚く。そうやって、ようやく太陽の位置を確認して歩き始めた。
さくりと、一歩踏み出しては軽く悲鳴を上げ、また一歩踏み出しては顔をしかめる。
「と、と……ふぅ〜。ともかく……町に……東に」
レオナルドの設けた魔法陣は、帝国領内のいくつかの町の近くにあるという。
今回、行動開始の起点として選んだのは、帝国最北の港町”ガヴァン”。比較的規模の大きい帝国軍基地が設置され、帝都との海路が確立されている場所である。
つまるところ、帝国軍に取り入りさえすれば、帝都までは一直線なのだ。
「帝都もこんな有様だったら……流石に、まずい気がする。手はかじかむし、足は取られるし、雪は重いし……最悪、”雷”で吹き飛ばすしかないかな」
ぶつぶつと呟きながら、一時間をかけて雪化粧の施された森を抜ける。
ようやくひらけた景色は、場違いながらも見入ってしまうほどの迫力があった。
なだらかな勾配の続く眼下に、港町”ガヴァン”の全貌が広がる。
荒々しい海に対して、二つの岬が突き出て入り江を形成している。その入り江には木製の足場で波止場が設けられ、いくつもの巨大な船が並んでいた。
波止場近くの建物が帝国の駐屯基地だろうことは、ひと目見てすぐに分かった。球体状の屋根が中央に目立つ特徴的な造りのそれは、見た目にも美しい白亜の建物だった。
しかし、街全体を通してみると、とにかく違和感の拭えない荘厳さだった。
「なんか……すごい落差……」
港町”ガヴァン”は、傍からは『帝国に占領された』町のように見えた。
波止場と町とを分断するかのように基地が配置され、それすらも守るかのように塀で区切られている。
塀の外側にあるのは、石造りや木造の家屋。”グエストの村”や”ロットの村”に建てられていたものと遜色はなかったが、雪が積もり寒風が絶えず吹雪いているせいか、ひどく貧相に見えた。
気候も地形も恵まれた王都と見比べると、人が住むところなのだろうかと思ってしまうほど、環境に打ちのめされていた。
「とにかく、基地へ向かってみよう……。話が通じる人だといいけど」
町中を歩いてみると、貧相な印象は一層強まることとなった。
造りとしては頑丈そうに見えた家々も、通りを歩くほどに、その消耗具合が目につく。角がかけていたり、壁面にヒビが走っていたり。道端に石塊が散乱している家屋もあった。
すれ違う人々にしても、活気があるとは到底思えなかった。
背中を丸めていたり、ひと目を気にするように道の端を歩いている。誰も彼もが、ほとんど一人で出歩き、ひっそり音を立てないよう行き交っている。
妙に沈殿した空気にキラも少しばかり打ちのめされながらも、件の白亜の建物の目の前にたどり着いた。
間近で見上げると、より白塗りの美麗さが際立つ。が、鉄製の門と塀に隔てられているためか、それ以上に伸し掛かるような圧迫感があった。
何もかもが王国と異なる体験に呆然としていると、鋭い声が耳に突き刺さった。
「貴様ッ、余所者だな――何用だ!」
門番をしていた兵士が、剣の柄に掌をあてつつ、距離を詰めてきた。
その姿に、キラはエマール領の番兵として接してきたニコラを思い出した。
上背のある体つきはしっかりとして、動きもそれなりに機敏。キビキビと足を動かして、屹然として立ちふさがる。
だが……。フルフェイスのヘルメットでその顔つきは判然とはしないが、声の具合でかなり疲弊しているのが分かった。
「答えろ、何者だッ」
兵士は、絞り出した体力を詰め込んだような、張りのない声で鋭く言う。
それに同情したからか……。キラはその声音を耳にした途端に、帝国を相手にすることへの緊張感をほぐしてしまった。
”センゴの刀”に手を伸ばさないように注意しつつ、肩にかけていたカバンを見せる。
「あの……レオナルドの使いできました。なんでも、『お望みの”書物”をくれてやる』と」
「れおなるど……?」
キラは、言葉の意味を図りかねると言ったような声音に、どこからか怒りが湧いてきた。
体をこわばらせている兵士にではない。その兵士が属している帝国にである。
何しろ、ろくに呂律が回っていないのだ。寒さで体力を奪われている上に、おそらくは空腹に耐えながら門の番をしている。
まるで使い捨てにされているような姿に、どうしようもなく腹が立っていた。
「分からないなら、もっと偉い人に伝えてください。ここで待ってるので……。あと、お肉あげます」
カバンの中から干し肉を取り出し、兵士に押し付ける。
「い、いや、そんな、勝手には……」
「じゃあ、偉い人を連れてきてください。その目の前で渡します」
「わ、わかったよ……」
兵士は渋々言いながらも、嬉しそうに干し肉を受け取った。手にした分厚さに圧倒されたのか、ほぁ、とうめき声を漏らしつつ、腰のポーチへと押し込む。
それから再び顔を向けて紡いだ声には、元気が戻っていた。
「れおなるどの……”書物”、だっけ……? ちょっと掛け合ってくるから、貸して」
「いえ……。レオナルドからは『タダでやるわけねえだろ』って聞かされてるので」
「ええ……。じゃあ、そっくりそのまま伝えるけど、何があってもオレのせいじゃないからな」
随分と態度の砕けた兵士に、頬が緩むのを必死でこらえながら、キラは頷いた。
屹然とした姿から一転して、わたわたと鉄門から白亜の帝国基地へと消えてから数分……。
先程の兵士が、上司らしき男とともに走ってきていた。
その中年の男は、太っていた。折り目正しく詰め襟の制服を着込んでいるせいで、膨らみのある腹や太ももが、本来以上に突き出て揺れている。
門をくぐり、白い息を漏らしながら近づく小太り男……。兵士とはまるで違う体型を目にして、キラは思わず”センゴの刀”に手をかけた。
「むむっ? いきなりっ?」
「わあ、わあっ、違います、違いますよ、リフォルマさん!」
兵士は大慌てで中年男リフォルマの視界を身体で隠しつつ、高速の勢いで振り向き、かすれるような早口で耳打ちしてきた。
「何に怒ったかはなんとなく察しはつくけど――ここではこれが普通なんだ。リフォルマさんも、色々と試行錯誤して仕事を回してくれてるんだよ」
「けど……」
「とにかく! 円滑に話を進めたいなら気持ちを鎮めてッ」
キラはムッとしたものの、刀の柄から手を離した。
すると、リフォルマは傍目にも分かるほどに安堵の息をつき、太った身体を揺らした背筋を伸ばした。
色白な男は、横幅と同じくらいに、背丈もあった。リヴォルと比べると、体の大きさの差がよく分かる。
顎にも頬にも肉の乗った顔つきは、しかし、見れば見るほどやつれているように感じる。
「おほん……。して、かの天才レオナルドから”書物”を託されたという話だが?」
キラは、居住まいを正して威圧的な雰囲気を醸し出す中年男に、複雑な視線をおくりつつ応えた。
「僕自身、字が読めないので内容は知りませんが、『喉から手が出るほどほしいはず』だそうです」
「なるほど……? だいたい予想はついたが――まず、見せたまえ」
「あと、『これだけで完結するものじゃないから注意するように』だそうです」
肉付きのいい手が差し出されたのを見て、キラはかばんから出した”書物”を渡した。
「ん? なんだね、この棒のようなものは。本には見えないが」
「巻物、って言ってました。『欲しけりゃ自分たちで探せ』って」
「なんとも回りくどいことを……天才の考えることは理解できないということかね。――うむ、たしかに、彼独特の署名がある」
リフォルマは巻物の紐をほどき、苦心しつつも丁寧に広げた。
すべてを広げきる前に、印鑑と呼ばれる朱色の署名を目にしたらしく、一つ頷いてもとに戻す。
「リフォルマさん。さっきの朱いの、何なんでしょう? ペンで書かれたものではないですよね」
「印鑑だよ、リヴォルくん。予め自分の名前を刻んだ判子と呼ばれるものに、朱いインクを塗って羊皮紙に押し付けることで、署名の代わりになるのさ。封蝋をするように、ぽんとひと押しでね」
「へえ! 便利ですね。それなら字がかけなくても関係ないってことですもんね」
「うむ。最初にこれを目の当たりにしたとき、帝都でも再現しようと職人たちが頑張ったそうだが……なかなかに難しいらしくてなあ。結局、頓挫してしまったのだ。さすがは天才レオナルドと言ったところだ」
「自分、レオナルドという方を知らないんですよね……」
「ふっふ! 地方出身はそれが普通だろう。しかし、彼を知りたいなら、文字を読めねば楽しくはないぞ?」
「げ……」
半歩退いてしまう兵士リヴォルに、その仕草に笑みを漏らすリフォルマ。
キラが呆然としてそのやり取りを見ていると、リフォルマは再び太った体を揺らして咳払いをした。
「ともかく。レオナルドの使いの者よ、ありがとう。――で、この巻物の交換条件とは何だね?」
「僕を帝都まで送って欲しいんです。この港町には船があるから……。――ん?」
「どうした?」
「……雪、じゃないですよね」
ぽつ、ぽつ、と。空から水のようなものが頬へ張り付く。
不思議に思って空を見上げてみる。一面に広がる青さには、雲など一つとしてない。
そこで、帝国軍基地から、何かが伸し掛かるようにして突き出ているのが見えた。
「……? 巨大な……氷?」
白亜の建物に、氷の柱が乗っていたのだ。
自然にできあがったものでも、ましてや元からあったものでもない。特徴的な円柱の屋根にはヒビが入り、今にも潰れそうなほどに震えている。
リフォルマもリヴォルも異常事態に気づき、ともに警笛を鳴らそうと笛を加えた。
が、その前に。
「え……ッ!」
ドンッ、と。
船が現れた。
帝国軍基地の上に。
氷の柱を伝い、その屋根に着地したのである。
「ガレオン船……!」
「まさか事故じゃないですよね……!」
「当たり前であろう! ——海賊の襲撃だ!」
ビーッ、とリヴォルのかき鳴らした警笛が合図だったように、海賊船からいくつものロープが飛び出した。
たらりと垂れたそれらを手がかりに、何十人もの海賊が帝国基地に降り立つ。ある者は魔法で直接地面に飛び降り、ある者はそのまま建物内部へ侵入し、またある者は奇声を上げながら町の方へ――鉄門に向かって走り出す。
キラは背負っていた鞄を放り投げ、刀に手をかけた。
リフォルマやリヴォルが静止するのも聞かず、走り出す。
「ンだよ、クソガキ――やんのかオラァ!」
姿勢を低め、鯉口を切り――ナタを大ぶりに構える男の懐へ潜り込む。
そして、抜刀。
寒さで手がかじかんで仕方なかったが、狙い通り、振り抜きざまの峰打ちで昏倒させることができた。
「おぉ……見事!」
「一撃とは……!」
キラは、ふぅっ、と白い息を噴き出し、二人の方へ振り返った。
「僕も加勢します。こんなところで足踏みしてる暇はないので」
「仕方あるまい。では――」
リフォルマが言葉を続けようとしたところを、リヴォルが遮った。
「ここは、市民の避難誘導に助力を。兵力は足りるけど、守りながらとなると……君ほどの実力者がいれば心強い!」
視界を覆い尽くすほどに詰め寄ってくるリヴォルに、キラは頷き――そこで、背筋を撫でるような感覚にゾクリとした。
今までにも覚えがある、ぴりぴりとした感覚だった。
「……? どうかしましたか?」
「ここから西の森に、何かが……」
そこまで言って、キラは口をつぐんだ。
感じ取ったのは、”神力”の波動だった。
今までにないほどに濃く、強い力だった。集中せずとも、濃密で強大なそれに飲み込まれそうだった。
もはや、波動のゆらめきで、徐々に近づいてきているのが分かる。
顔を見合わせているリヴォルとリフォルマが、なぜこれを感じ取れないのか不思議なくらいだった。
「ここは、任せます。僕は森の方へ……!」
「ま、待ちたまえ! 一体、何が――」
「分からないです――けど、一刻も早くここを離れてください!」
キラは無意識の内に歩き、叫ぶように言ってから駆け出した。
早く向かわねば、この気味の悪いほどに絶大な力が町で暴れまわることになる――焦燥感に突き動かされ、ただひたすらに足を動かす。
途中でフードが外れて黒髪が寒風にさらされ、耳も取れそうなほど冷たくなる。雪を踏みしめるほどに足の感覚がなくなり……しかし、それらに反して、刀を握る両手はしっかりと柄糸の縫い目まで感じ取れていた。
そうして、たどり着いた森に、ソレがいた。