「――で。おまえさんは、今はまだ動ける状態じゃないわけだ」
レオナルドはカラッとした男らしい口調で言い、細くしなやかな人差し指をくるりと空に円を描いた。
すると、そばの棚からふよふよと瓶が近づき、レオナルドの胸元あたりでとどまる。
彼女は僅かに目を細め、魔法の水でばしゃばしゃと適当に洗った後に、瓶いっぱいに水を注ぐ。
「ま、とりあえず、これで水分補給しな。声が出にくいのは、弱ってるからもあるが、のどが渇いているからってのが大きい」
レオナルドの手元から離れ、空中を歩くかのようにひとりでに近づいてくる瓶。
その様を、キラは何も言わずに凝視していた。
魔法って、すごい。幾度口にしたかわからない言葉を掠れ声でつぶやきつつ、瓶を手に取りあおった。
「そもそも……」
キラは潤いの広がった喉で、慎重に疑問を投げかけた。
「僕は”授かりし者”で、治癒の魔法は効かないんじゃ……?」
「ちょいと違うな」
レオナルドが、指を二度ピュンとふる。
キラの手元の瓶がひとりでに動き出し、同時に水の玉が浮かび上がる。瓶は水球に飛び込むや、自ら回転して洗浄し、しずくを垂らしながら棚へと戻っていく。
「正確には『効かない』んじゃなく、『吸収率が超絶悪い』んだ。人が百受けられる恩恵を、おまえさんたちは一かそれより下かくらいにしか受けられない」
「そういえば……。長時間の治癒魔法なら怪我が治って、ました……」
「頭の回る魔法使いに助けられたな。――だいたい、この世のすべてのものに魔素が宿るんだ。そこらへんの枯れた木々やら、空気中にも地面にもな。人に宿れば、それが体内で”魔力”に変換されるだけで、根本は同じさ」
「だから、僕にも治癒魔法が効く……」
「人の体にも、魔素が深く染み込んでるのさ……”授かりし者”も同様にな。ちょいと体の仕組みが違うだけで、基本的に何も変わりゃしない」
「じゃあ、このお風呂は、その応用みたいなもの、ですか」
「まあな。”授かりし者”に治癒の魔法が効かないのは、”神力”が”魔力”を弾いているからだ――このあたりは、まだまだ研究の余地があるんだが。ともかく……それなら、直接”魔力”をあてるんじゃなく、緩衝材を挟めばいい。結果は、おまえさんが一番肌で感じてるはずだ」
「研究の勝利……実験体?」
「あっはっは! 面白い冗談だ! いいぞ、その調子だ」
レオナルドは、キラも思わず一緒に頬を緩めてしまうほど、豪快に笑った。
「さてさて。今、お前さんの身体は空っぽだ。この三日間、飯どころか水もろくに喉を通ってないんだからな。水がすこぶるうまかったろう?」
「ええ……。……ええっ?」
「うん?」
「三日も……寝てたんですか」
「んあ、そういや言ってなかったな。この部屋に転送されたお前さんは、それはもうひどい状態だったんだぞ。身体中ボロボロで、胸に刀が突き刺さって……それでもなお意識を保ってた。覚えてるか?」
「いや、全く」
「だろうなあ。このオレとしても、なぜ生きてるのか理解できないくらいだった……興味深いくらいに、頑丈で生命力のある身体だ」
レオナルドは、ゆったりとしたローブの上からでもわかるくらい豊かな胸の下で腕を組み、ブツブツとつぶやき始めた。
「”授かりし者”だからと片付けられるものじゃない……。身体を弄っていたときに感じた”覇”にも似た微弱な波動が原因か……いや、アレはどう考えても別物……。とすれば……しかし、あいつの手紙には記憶喪失と……」
そこでキラは、初めてレオナルドの整った顔立ちをまじまじと凝視した。
たしかにどこか元男の風格があった。きりりとした眉は、堀の深い目つきも高い鼻梁も色っぽい唇も、まるめて鋭く引き立てている。
顔つきだけを見れば、”彼女”なのか”彼”なのかわからなくなるほど、格好いい。
しかし、額や眉、頬に顎は、女性らしいなだらかなラインや肉付きがあり……レオナルドの自称通り、絶世の美女に違いはなかった。
「……おん?」
すると、思考の海から突如として浮かび上がったらしく、レオナルドの一重まぶたから覗く黒い瞳と目があった。
キラは背筋を伸ばして緊張し、しかし、ぶつぶつと呟くレオナルドから視線を外せなかった。
「この感覚……。魔法なんか使えないはずなのに、どういうわけだろうな? ああ……ますます謎が深まる……!」
尖っていた唇は、徐々に緩んで釣り上がり、綺麗な弧を描く。
細くなりがちだった目も、まぶたが開いて爛々と輝き……何やら彼女の中で湧き上がった情熱は、より一層の色気を醸し出した。
「あの……?」
「うん? ああ、悪い、ちょいと面白くなってきたもんでな。オレが元から女だったら、今すぐお前を襲っていたところだ。体がうずいてしょうがないのさ」
「はい?」
「女の体が男にとって毒のように、お前さんもまた女にとっての毒だって話だ」
「はあ……」
「自覚なしなのがまた面白いところだ」
「何の話、ですか?」
レオナルドが答えようと、一歩足を踏み出した。その足を踏み出しただけの動作は、しなやかな腰つきもあいまって、色っぽくそして艶めかしかった。
彼女自身、気づいてはいないようだったが……その一歩は、抑えていた我慢が噴出したようにも見えた。
そうして、また一歩近づいたところで……ぐうっ、と妙な音が轟いた。
「ん……?」
「お腹……減った」
キラが力なく言うと、レオナルドははっとして一歩遠ざかった。
「危ない、危ない……!」
「……?」
「とりあえず、飯にするか。……っていっても、今は温かいスープなんかが良いだろう。用意してくるから、待っときな」
胸を抑え、さっと背中を向けるレオナルド。どこか躊躇するように足を踏み出し、ふるふると頭を振るってからは、何かを振り切るように小走りで去っていった。
ぷかぷかと『回復風呂』で浮かびつつ、ぼうっとする。
思い浮かぶのは、レオナルドのもとに来てからすでに三日が経っていたという事実だった。
彼女の言葉は、全てが本当であると確信を持って言える。
なにせ、ランディが頼った人物なのだ。何をどうしたのかは分からないが、”転移の魔法”を使ったのも、レオナルドによるものなのだと推測できる。
だからこそ、三日という時間の大きさを感じずには居られなかった。
”闇の神力”を感じ取って、しかしそれに確信が持てず、リリィたちから離れてしまい。友であるグリューンと対峙し、ユニィに託し。そして、それから……。
「みんな、どうなったんだろ……」
ポツリと呟いた声は、鉄扉が開いた音によってかき消された。
鬱々とした考えを隅へ追いやり、カツカツと硬質な靴音の方へ目を向けて……キラはぎょっとした。
ふよふよと宙に浮く土鍋と、ひとりでにゆっくりと中身をかき混ぜているおたま。皿もスプーンもコップも、自分の意志があるかのように浮遊している。
だが、『魔法すごい』と言わざるを得ないその光景よりも、遥かに奇妙キテレツだったのがレオナルドだった。
彼女は、せっかくの美貌を麻袋をかぶって隠してしまっていたのだ。はだけていたローブもぴっちりと閉じ、色っぽい褐色肌は一つも見えなくなっている。
「え、あ……? 誰?」
「いい反応だ! んま、ちょいとした対策だ……効果があるかは知らんが。気にしなさんな」
「でも……」
見れば見るほど、麻袋をかぶるレオナルドは存在感を放っていた。
荒い布目で視界はなんとか確保できているようだったが、右へフラフラ、左へフラフラ……随分と歩きにくそうだった。
少しばかり時間をかけて『回復風呂』の隣に立ち、何度か指を振るう。
部屋の隅の方にあったテーブルが飛んできて、浴槽にぴったりと側面を合わせて鎮座した。それから、浮かんでいた土鍋や皿も、卓上へ自動的に並べられていく。
「んなことより、まずは飯だ。シチューの作りおきだが……じゃがいもやら人参やら、消化できなさそうな固形物は取り除いた。味気ないが、我慢してくれ」
湯気の立つ土鍋の中をお玉がゆっくりとかき混ぜ、そっとシチューを掬い出す。とろりとクリーム色のしずくがこぼれ、適度なところで皿へと盛り付けていく。
「そいつにも、『回復風呂』と同じく治癒魔法を練り込んでおいた。正直効き目は怪しいが、なにもないよりかはマシだ。時間かけてもいいから、鍋の中身を平らげるんだぞ」
有無を言わさず押し付けられる皿とスプーンを手に取り、キラは浴槽の中で食事を始めた。温かさと柔らかな香りとが、身体の中に染みていく。
一層空いた腹が唸った気がして、レオナルドに言われるまでもなく、喉の奥へとかきこんでいく。
「貧弱なくせに、良い食いっぷりだ」
「ひ、貧弱……」
唐突な悪口にむせそうになるも、なんとか飲み込んで回避する。
非難めいた視線をレオナルドに向けると、彼女は肩をすくめてみせた。麻袋をかぶった珍妙な姿のまま、男らしくも綺麗な声で言う。
「事実さ。実際に隅々まで触ったんだから間違いない。……というより、本当にちゃんと食ってたのか? 拾われてからこれまで、どんなものを食べてきた?」
「どんなって……普通にパンとかスープとか」
「だめだ、だめだ、もっと食わねえと。栄養やらバランスやらもいいが、まずは何より肉だ。戦士が何より恐れるのは体力切れなんだぞ――食べることも仕事、なんて極端なこと言い出すやつも居るくらいだ」
「はあ……」
「ってことで、昼飯からは焼肉パーティーに決定だな。脂肪と筋肉をガッツリつけろ」
反論は聞かん。そう言わんばかりに背中を向け、どこから持ってきたのか、テーブルに寄せた椅子に腰掛ける。
足を組んで指を振り、どこからともなく飛んできた新聞を掴んで、読み耽る。が、麻袋をかぶっているせいか読みにくいらしく、紙面を近づける様はなかなかに残念だった。
「あの……」
お皿に残ったシチューをかきこみ、キラはおずおずと問いかけた。
その間にも、ひとりでに動くお玉がおせっかいを焼き、お皿いっぱいにシチューをよそってくる。
容赦のない様子に頬を引きつらせながら、言葉を続けた。
「ここって、どこですか? 王都の近く……とか?」
「うん? ――いや、帝国さ。外は極寒だから、勝手に出かけようとは思うなよ? 裸は愚か、きちんと服を着込んでも、少し迷っただけで凍え死ぬ」
「帝国って……。本当に……?」
「嘘ついてどうすんだよ」
「じゃあ、でも。ランディさんはどうやって……?」
「なかなか難しい話だ。今ちょちょいと説明してやれるようなことでもない。だから――順序を踏まえようか。おまえさん、これからどうするつもりだ?」
うまくごまかされたことに気づきながらも、キラはぽつぽつと答えた。
「どうするって……王都に戻りたいです。とにかく、あれから何が起きたのか……知らないと」
「殊勝なことだ。あんなぼろぼろになって……また戦場に戻ると? ――ブラックに負けに?」
「……! なんでそれを……!」
「あいつはオレの弟子だからな。何やってるかくらい、簡単に想像がつく」
あまりにも予想外なことに、キラはお皿を取り落してしまった。
レオナルドはその反応を察していたのか、間髪入れずに魔法を使った。ウォン、という不思議な音とともに、こぼれかけたシチューがお皿に戻り、ふわふわと浮いてテーブルの上に移動する。
「弟子って……じゃあ……!」
「間接的にも直接的にも――オレがランディを殺したと言ってもいいだろうな」
老いた英雄の身に何があったか、その光景が瞬時に脳裏を駆け巡った。
ブラックに、左腕を斬り落とされ――”グエストの村”で過ごしていた時には見せなかった苦しそうな表情を見せて――血だらけになっていた。
ランディは死んだのだ。ただ死んだのではなく、殺されたのだ。
キラは、ハッ、と浅く息を吐きだした。身体が沸騰しそうなほど熱くなる。
荒く呼吸を繰り返し、水面すれすれまで顔を近づけ――その鏡のような水面に、己の赤い瞳が映ったのを見た。
「ふむ、上手くいったか――ちょいと見せてみろ」
そう語りかけながら、レオナルドは即座に浴槽の寄りかかるようにして膝を付けた。頭にかぶっていた麻袋を取っ払い、その滑らかな手を伸ばしてくる。
キラはそれを払おうとしたが、どうやっても身体が動かなかった。
魔法をかけられたのだ、と気づいたときには、彼女の指が顎にかかり、ぐいと持ち上げられていた。
「赤い瞳……? これは想定外だな――ヴァンパイアの瞳は、総じて青色に変化する」
レオナルドは、きれいな眉を歪めて怪訝そうにしていた。
「”覇”が影響しているせいか? だがこんなことは事例がない……」
「はなせ……」
「琴線に触れて正解だった。我ながら危ない橋を渡ったもんだが――今ははっきりと分かる。面白い、二種類の”覇”とはな……!」
「はなせ……!」
「悪いが離せないな。考え事をしているんだ。――さあ、どこまで考えたかな。ああ、わからなくなった。だが興味深い――”神力”に加えて二種類の”覇”、そしてこの”赤い瞳”……! ”頑丈な身体”も、どれかと結びついているのか?」
彼女の謎の調査はしばらく続いた。
早口でつぶやいては、頭を振るってその可能性を削除する。
そんなレオナルドの様子に、キラはどうにかなりそうだった。
ランディという友人の死に心を痛めていた姿はどう考えても演技ではなく……しかし、かの英雄を死に追いやったのは自分と弟子であるブラックという。
恨めば良いのか、理解を示せば良いのか、悲しんでおけば良いのか。
何が正解なのか、どれだけ考えても見つからず……ただ時間が経つたびに、頭の中がぐちゃぐちゃとしていくだけだった。
「――じゃあ、なぜヴァンパイアの瞳は変色する? ああ、まいったな、ヴァンパイアに友人の一人でもいれば……だが、なにせあいつらもオレと同類……。だが――そうか――ヴァンパイアにはもう一つの人格が存在している」
レオナルドははっとして、うつむきがちだった顔と目線を上げた。
美しい顔立ちをいっぱいに輝かせ――キラはその表情に息を呑んだ。目の奥で瞬く輝きに、美しく弧を描く唇……子供のような無邪気な喜びに、狂気的な何かを見た気がした。
「”お前さんは誰だ? 誰がお前さんの中にいる? すべてを詳らかにしてほしいものだ”」
その声は、なんとも奇妙なものだった。
口が開く様子と、耳に届く声の様子が一致していない。まるで別の言葉を同時に聞いているかのようだった。
キラはくらりとした感覚に呻いた。脳が揺さぶられて左右に頭が揺れ動き、まともに前を向けなくなる。
そして、
「あなたには……関係ないでしょう……」
自分のものではない、誰かの声が喉の奥から出てきた。
気味が悪かった。自分の知らない声が……振動が、喉から伝ってくる。
「なあ、もう! なぜこうも想定外が起きる! 女の声だとっ? ヴァンパイアの別人格は同性だろうが!」
レオナルドがぐしゃぐしゃと長くキレイな黒髪をかきむしっているうちに、キラは胸にせり上がるものを我慢できなくなった。
自由の利かない身体で、なんとか浴槽の外へ頭を出し、ぶちまける。
「おっと! 悪い、無理させちまったみたいだな。ほれ、気にせず全部吐け。まだ飯はある」
すべてを出し終えるまで、レオナルドは背中をなで続けてくれた。
その手付きを感じながら、キラは今さならながらに彼女という人物がわからなくなった。
元男ながらも、女性よりも女性らしく。友人の死に哀しみながらも、自らが死に追いやったのだと告白し。敵対的な態度はなく、ただただ、優しくあり続ける。
もしかしたら。いや、もしかしなくとも。
レオナルドという人物は、複雑な事情の上に立っている。
そんなことを思いながら、浴槽の縁によりかかり、ひたすらにぶちまけ続けた。