38.波動

 目の前に差し出された水の塊に顔を突っ込み、キラは何もかもを洗い流した。
「いやあ……上手く行かないものですねえ。汚れが苦手なものでして」
「ごめん……シス」
「いえいえ。魔法で何とでもなりますから」

 そう言ってニコリと微笑むシスは、初めて会ったときと変わらなかった。黒いマントで身を隠し、フードを目深にかぶって、優しげな表情をのぞかせている。
 ただし、今はすぐにその顔つきが引き締まった。
 ”白シス”を彷彿とさせるような鋭い目つきを、正面にいるガイアに向ける。

「さて……。あなたは誰でしょうか? そこに立っているのは、なにか意味でも?」
 褐色の男は、獰猛な笑みとともに、ニヤリと返した。
「いやァ? ただ、どうも面白ェ”波動”を感じてなァ。ちょいと確かめにきたまでよ」
「でしたら、通してくれますね? 僕たちは無関係なんですから」
「あァ、いいぜ。――俺と遊んだあとならなァ!」
「嫌な予感はしましたが――キラさん、下がっていてくださいね!」

 そういうや、迫りくるガイアに向かって、シスは駆け出した。
 キラもあとに続きたかったが、思うように足が動かなかった。痛みも疲労もないというのに、力が入らない。

 歯を食いしばり、顔を上げ――視界に映ったのは、
「ユニィ、待ってくださいな!」
「うぅ……またっ」
 白馬の後ろ姿だった。
 石畳を踏み壊しながら、前のめりに走り出すシスの隣を駆け抜け、躊躇なくガイアに向かっていく。
 リリィが必死に手綱を引くも、お構いなしに突進する。

「あァ? 馬――だが、この”波動”!」
 ――こンのひよっこが! 生意気に歯向かってんじゃねえぞ!
 ユニィは興奮そのままに後ろ足で立ち上がり、思い切り右前足を振り下ろす。
 それをガイアは、真正面から受け止めた。

 ドン! と。
 交差し掲げた腕に、蹄が食い込む。
 なんとも、驚くべき光景だった。ガイアの硬い褐色の肌が、闘技場をもぶち壊す一撃を食い止めたのだ。

 ――あァ、鬱陶しい!
「ハッ……! 効くなァ、オイ……!」
 そのまま押しつぶそうとする白馬に対し、ガイアは全身に力を込めて、その場から脱出した。大きく後ろに後退し……膝をつく。
 さしものガイアも、それで限界だったらしい。
 腕からどくどくと血を流し、ぎりりと歯を食いしばっている。

 ――次でしまいだ、クソマッチョ!
 何に怒っているのか。白馬はその憤りに任せて、とどめを刺そうと蹄を地面でこする。
 おそらく、謎の最強生物たるユニィならば、ガイアも蹴散らせるだろう。

 だが……。
「まずいですね……。騎士たちが集まってきました――流石に対応が早い」
 闘技場から、”正門”から、”貴族街”から。あらゆる方向から、黄色いマントを肩にかけた騎士たちが駆けつけてきた。
 キラはその状況を見てとり、再びガイアに視線を合わせた。

 もはや虫の息の褐色の男は、それでもなお凄まじい闘気を放っていた。
「ユニィ、だめだ……!」
 白馬は、その姿に強く惹かれているようでもあった。
 なんとしてでも止めねば――今はニコラとエリックを逃がさないと――リリィを王都に――こんなところで足止めされてる場合じゃない。
 そうわかっていても、思うように声が出なかった。
 そうしているうちに、ユニィがガイアの真正面で立ち上がり、そして――。

「ユニィ! 大人しくなさい!」

 しがみつくように手綱を握っていたリリィが、厳しく叱りつけた。
 すると白馬は、驚くほどにおとなしくなった。一気に冷静さを取り戻し、鼻を鳴らしてガイアと距離を取る。
 その不思議な光景にキラが目を取られていると、シスが素早く声を張り上げた。

「リリィ様! この先へ行っています!」
 リリィは逡巡の後、その合図にうなずいた。
「――ええ! ユニィ、行きますわよ!」
 有無も言わさず。白馬を手綱で操り、ガイアを飛び越えさせる。
 褐色肌の男は、漲る闘志を落ち着かせるように深くため息を付き、揺れる白馬のしっぽを見送った。

「ヨォ、キラ。あの馬は、なにもんだ?」
「さあね……」
 腕から血を流しながらも、気にした様子のないガイアにキラは舌打ちをした。
 ユニィを馬なのかと疑問に思うのは当たり前のことだが、キラとしては、ガイアも本当に人間なのか疑いたいところだった。
 いくら”神力”を有しているとしても、ユニィの一撃を耐えるなど考えられなかった。

「では、これでお暇しましょうかね。あなたも満足したようですし」
 シスは何でもないように言い、静かに立ち上がるように促した。
「ンン? その青い目……ヴァンパイアか」
「おやおや。これでも気付かれないようにしているのですが。やっぱり厄介ですね……あなたたち”授かりし者”は」
「ハッ、見えてんだから仕方ねェだろ。まあ安心しろ。邪魔なんぞしねェよ……興が削がれた」

 ガイアは、その言葉通りに、どこか気力をなくしていた。簡易な革鎧を破るかのように膨らんでいた筋肉が、しぼみ切っている。
 ちらりと白馬の去っていた方向に視線をやり――すると、そこで不自然に静止した。
「チッ……! 魔法か……!」
「あいにく、用心深い性格でしてね」

 ”影縛り”だ。気が付かないうちに、シスが魔法をかけたのだ。
「テメェ……!」
「神の力を宿した”授かりし者”とはいえ、人間であることには代わりありません。僕の同胞かエルフ族でもない限り、簡単には解けませんよ」

 どれだけあらがっても、ガイアは指一つ満足に動かせていなかった。
 あのユニィですら、一撃で崩せなかったというのに。いとも簡単に無力化してしまった。
 やはり、只者ではないのだ。改めて向き合ったシスをまじまじと見つめ、キラは唖然としていた。

「さ、僕の手を掴んでいてくださいよ。飛びます」
「え?」
「――”無陣転移”」
 シスの青い瞳が、ギュン、と渦巻き色濃くなる。
 それと同時に、周りの景色もぐるりとマーブル模様となって変わっていった。

   ○   ○   ○

 知識は武器である、とは魔法のイロハを教えてくれた”奇才”レオナルドの口癖だ。
 頼りになる”神力”が使うことが出来ず、剣の才能もなかった人間が誰かと対等に戦うには、『敵を知る』ことが鍵となる。
 ただ、使えもしない魔法をすべて覚えるのは、流石に苦痛だった。
 レオナルドの助力で予知とも予見とも言える技術を習得できたものの……。

「ぐぅッ!」
「――君たち。これ以上続けてもあまり意味はないと思うだが、どうかな?」

 実戦において、真に役に立つとは言い難い。
 相手と面と向き合って対決していればいいが、戦いというものはそれほど正直には訪れない。
 例えば。
 視界の悪い薄暗い森の中で、こっそりと背後から忍び寄ってくる者もいるのだ。

「”不死身の英雄”……化け物め……!」
「心外だね。それを知っておきながら、君たちは襲ってきたんだろう?」

 ”再生の神力”が不安定なときは随分と苦労したが……今や、奇襲に警戒する必要もない。
 ランディは自分の胸に刺さったナイフを、ずぶりと引き抜いた。その痛みに思わず顔を歪めそうになったが、口端をニヤリと釣り上げ、内なる感情を殺す。
 手にとったナイフの刃先は血に濡れ、しかし少したつと固まりだした。明らかに、毒の持つ性質だ。

 だが、毒であろうが刃物であろうが、”再生の神力”の前では無意味だ。
 傷は異物が排除されたその瞬間から修復され、内部に侵入した毒は即座に浄化される。
 ”神力”が覚醒した今となっては、相手の手の内を読むことすら不要なのである。
「そうはいっても、昔よりかはだいぶ控えめになったのだがね」
 老人はぽいとナイフを捨て、地面にうずくまる三人の黒装束に目を向ける。

「一応聞いておくが……君らがアリエスを襲撃したとき、指揮を撮っていたのは誰かな? ドラゴンに巨大ゴーレム――まさか、勝手に君たちに加勢したわけではないだろう」
 襲撃の直前。それまではかすかにしか聞こえなかった白馬のユニィの声が、はっきりと耳に届いたのだ。

『――チッ、嫌な予感がしやがる……!』
 その時点では、ユニィでさえその程度にしかわからなかったのだ。あれほどの巨体の怪物が二体も現れながら、直前まで……。
 ユニィは、ランディにとっては師であり、同時に世界で最強の生物だった。
 負けることも劣ることもない、”絶対強者”だったのだ。
 だからこそ、不可解だった。

「帝国”軍部”の直属暗殺組織”黒影”……。昔から君たちは、厄介な戦法を得意としていたが……答えが見つかりそうもないんだ」
「ふ、ふふ……! 時代は変わったということだ……精々、頭を抱えるといい。我々は、いつ、何時でも――この国のどこにでも現れる」
「ん? ――ああ。私が聞きたいのは、そっちじゃない。あの”波動”……”授かりし者”の力だ。ドラゴンが現れた理屈も、それで説明がつくんだが――」

 ユニィが街中を走っている間中、ランディの頭の中では彼の愚痴がずっと響いていた。
 やれ気付くのが遅れただの、やれどこにいるかだの。
 そうして、ドラゴンが現れて。
 おそらくは、白馬自身もドラゴンに執着しすぎて、気づいていない。

「あの巨大なゴーレムは、一体どういうわけかな?」

 あのとき、確かに、ゴーレムは第一師団支部の裏手で”生まれた”。
 岩壁が勝手に生物化するなどという恐ろしい現象はない。だとすれば、必ずゴーレムを生み出した者がいるはず。

 が、いくら注意しても、”神力”の”波動”も魔法が使われた感覚もなかった。
 考えれば考えるほどに、薄ら寒くなる。
 ドラゴンも、ドラゴンを呼び出した”授かりし者”も、その比ではない。
 ”波動”を感じられない位置にいるにもかかわらず。あれ程の巨大なゴーレムを生み出し、操り……騎士団支部を追い込む”授かりし者”がいるということに他ならなかった。

 加えて……。
「まったく、どういう因果なのか……」
 その類の力には、覚えがあった。

 血の滴る刀を乱雑に払って、鞘に収める。
 ランディは静かに目を閉じ、呼吸を整え……そうしていると、何やら勝ち誇ったような声がした。
「老いた英雄が、今更手出しはできん……! もはや、手遅れ!」
「そうかね?」
 内心をひた隠し、ランディは肩をすくめてみせた。

「しかし、よくやるものだと、感心しているよ。疑問が尽きない。そもそも、なぜ君たちのもとにドラゴンがいるのか……洗いざらい喋ってもらいたいものだが」
 彼らの返答など、聞かずともわかった。
 否。聞くこともなかった。
 三者三様とも、毒塗りのナイフを自らの首に突き立て、命をたったのだ。
「やはり……君たち帝国と戦うのは、あまり気持ちのいいものではないね。昔、帝国のために戦ったことがあるのだが……それは無駄だったのかね?」

   ○   ○   ○

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