37.崩落

 暗くて、寒くて、何もない場所で。
 誰かと会っていた。
 何かを話していた気もするが、時が経つごとに、果たしてそんな事があったのかさえもわからなくなっていく。
 そうして。ずっと、もっと。恐ろしい場所へ落ちていく。

 嫌だった。抗いたかった。もがきたかった。
 しかし、そう思うたびに何かが囁く。
 苦しいのはもがくからだと。
 受け入れればいいのだと。
 それから……。
 そんなときだった。

〈まったく、手がかかる!〉
 ――弱気になってんじゃねえぞ!

 誰かの声と、よく知った声とが、重なって聞こえた。
 それをきっかけとして、背中がやたらと暖かくなる。その暖かさは、やがて全身に広がり染み込んだ。
 そうして――。

 はっ、として息を吸う。
「キラ――キラっ? 大丈夫ですか、戻りましたか?」
「リリィ……?」

 彼女の声で、一気に何もかもを取り戻した。
 砂地をこする感触で足に力が入り、やけどした肌を風が撫でる。誰かが懸命に戦っている音が耳に届き、ゆっくりと顔を上げる。
 明瞭な視界には、剣を片手に”預かり傭兵”を蹴飛ばすエヴァルトと、そして美しい顔をほっとして歪ませるリリィが映った。

「少年、調子はどや? 自分で歩けるんなら歩いて――意外に重いねん!」
「ごめん……もう大丈夫、だと思うから」
 キラは寄りかかっていた二人から身体を離した。あいも変わらず鉛を着たかのような気だるさがあるが、不思議と力が入って動ける。
 なおも心配そうにするリリィに微笑んでみせ……エリックを背負って前を歩くニコラが、剣を差し出してきた。

「キラ殿、君の剣だ」
「ニコラさん……。来てたんですか」
「ああ。どうにも、じっとしておけなくてね。バカ息子も、君のおかげでぐっすりだ」
 冗談めかした言い方に、キラはつい笑ってしまった。

「――オい、ズイブンと楽しそうじゃナイカ」
「シス! わたくしも加勢いたしますわ」
「……エエ。助カリます」

 すぐそばで靴底を滑らして着地したシスに、キラはぎょっとした。
 まさしく、”白いなにか”としか表現できない姿をしていた。
 真っ白なマントを羽織っていることもそうだが、なにより、白フードの中身がなかった。真っ黒な影に塗りつぶされて、不自然なほどその表情を伺えないのだ。

「何ミテいる?」
 その乱暴な口ぶりや、猫背のような前傾姿勢、ふらりふらりと左右に揺れている姿。
 どれをとっても、あの優しげなシスの印象とはかけ離れていた。
「ノアもそうだけど……騎士団には変な人がいっぱいだ」
「ふン……。本人を目ノ前二よく言う。無駄口叩かナイで逃げられるように準備ヲしておけ――アレは、もうオレの手ニハ負えない」

 その言葉の意味を、キラだけが最後までわかっていなかった。リリィもエヴァルトも、そしてニコラでさえ……。立ち止まり固まっている。
 キラも剣をギュッと握り、背後を振り向いた。

 ブラックが、ゆっくりと近づいていた。
 その周囲は黒く染め上げられ、なにやら歪んで見える。地面も空間も剣も、そしてブラック自身も……”漆黒”に飲み込まれそうだった。
 真っ黒な中に浮かぶ白髪と血の眼は不気味で、それでいて神秘的でさえいた。

「近づいただけで何かが起こりそうな雰囲気ですわね……」
「あれ、どう考えても普通やないやろ」
「かなり強力ナ”神力”だ」
「――馬が飛んでる」
 場違いにもぽかんとつぶやくニコラを、皆が一斉に振り向いた。

「何アホ抜かしとんねん、こないなときに」
「全ク……助ケテやったらコノ世迷い言カ」
 エヴァルトとシスが口々に呆れたように言い……キラは空に視線を上げつつ、ニコラを擁護した。
「――けど、ユニィならやりかねないね」
 そして、リリィもそれに続いた。
「ええ。なんといっても、ドラゴンの額を踏み抜いてしまいますからね」

 澄み渡る青い空を背にして、真っ白な毛並みを持つ馬がいた。
 力強く空を駆け、急降下するや、
 ――こンのクソガキィ! 俺様を無視してんじゃねえよ!
 怒髪天を衝く勢いを、闘技場でぶちまけた。

 ブラックめがけて放たれた一踏みが、すんでのところでかわされて、地面をぶちぬく。
 ことはそれだけにとどまらず。
 文字通り、闘技場を壊してしまった。
 地面が、客席が、闘技場全体が。揺れて、ひび割れ、瓦解していく。

「地下カ……ッ!」

 地獄のような光景だった。
 踏み抜かれた箇所を中心として、すり鉢状に地面が崩落していくのだ。
 割れた客席も、崩れていく地面に引きずられるようにして、大きく傾く。
 幾人かが悲鳴を上げながら奈落の底へ落ちていき……それを見るや、誰も彼もが我先にと、人を蹴飛ばしてでも安全を求める。

「醜い――なんて人のこと言うとる場合やないなあ!」
 足場が徐々に落ちていく中、エヴァルトが駆け出した。
 同時にシスも飛び出す――二人とも、ブラックの動きに反応したのだ。

 白髪の男は、何もかもを歪める闇を纏い、崩落していく地面を跳んで渡ってくる。
 エヴァルトが右手に雷を宿しつつ突進し、その背後からシスが飛び出しブラックの後方へ。二人して、息のあった挟撃を仕掛ける。
 が。
 ”闇の波動”ともいうべき漆黒のゆらめきで、あっという間に弾き飛ばされる。

「――ニコラ殿! キラを頼みました!」
 一瞬の判断で、リリィが先に駆け出す。
 ”紅の炎”と”闇”が交差する、その寸前で――。
「え……ッ!」

 ――小童が粋がってんじゃねえ!

 ユニィが、ブラックへ先制した。
 身体を回転させ、鋭い後ろ足の蹴りを繰り出す。
 ブラックはわかっていたかのように”闇”を展開し、黒剣を引き寄せ身を守る。

 しかし、
「ぬ、ゥ……!」
 何ら役に立たなかった。”闇”は蹄に蹴破られ――客席まで見事に吹き飛ばされる。
 ユニィは、呆然とするリリィを強引に背中に載せ、とんと跳ぶ。それだけで、あっという間に闘技場の外へと姿を消してしまった。

「俺は夢でも見ているんだろうか……」
「ニコラさん、僕たちも早く逃げますよ」
 崩落に巻き込まれつつある足場に危機感を覚え、キラはニコラを追い立てた。
 そこへ……。
「このオレが後手ニ回ろうトハ……しかも、アンナこけおどし」
「シス! ……なんだよね?」
「アア。二人トモ、とっとと行クぞ。――そのガキを落トスなよ」

 そういうなり、シスはキラとニコラの手首を握った。
 特に力を入れているわけではない。というのに、いとも簡単に身体が引っ張られ――シスは、凄まじい跳躍力で客席を飛び越した。
「お……お……!」
「一体、何を……!」

 ふわりと浮かぶ身体に、一気に遠のく地面。少し前にいた足場は崩落し、客席も飲み込まれ――崩落の全貌が明らかになった。
 そこにあったはずの闘技場が、ぽっかりと黒く塗りつぶされている。客席の一部もすでになくなり……そんな壮絶な現場から、沢山の人々が散り散りに逃げていく。

「ユニィ、めちゃくちゃやったなあ……!」
「オレとしてハ、気分がイイ。奴ラの倫理観ハ狂ってる……人の痛ミがわかってナイ」
 物腰柔らかなシスと”白マント”とは似ても似つかなかったが、それでもその言葉が彼の本心であることがわかった。

「キラ殿、よくそんな冷静に……うぅ……」
 反対側にシスに抱えられているニコラは、もはや限界のようだった。
 いつもの真面目さや屹然とした態度はどこへやら。エリックをしっかと抱きしめつつも、顔を真っ青にし、涙が出そうなほど声が震えていた。
「え? ああ……ユニィで慣れたので。……ちょっと、気持ち悪いけど」
「アノ馬……本当ニ馬か?」
「……それは僕も聞きたい。ドラゴン踏みつける馬なんて、いるの?」
「逆に問ウ。イルと言ッたら信じるカ?」
「……いや」

 それまで乱暴だった口調のシスが、くすりと笑った。
 キラにとってはなんだか意外で、じっとシスを見た。下から覗いても、目深にかぶったフードの中は真っ黒で、肌の色一つ見つからない。

「シスって……何?」
「何ダ、その質問ハ」
「初めて会ったとき、目の色が変わってた。それに……魔法。良くはわからないけど、今使ってるのって、普通じゃないよね?」
「ふン……。ソレはお互い様ダ」
「え……?」
「――”不可視の魔法”と言ウ。魔力デ魔素に干渉スル魔法……魔力そのままの魔法ダ」
「……?」
「ワカラナイなら聞クな」
「ごめん。魔法、使えないから……」
「だろうナ。サア、このアタリで降リルぞ」

 シスが言うと、浮いていた感覚がさっぱりと消えた。
 今度は、ものすごい勢いで地面に引っ張られていく。ニコラはもちろん、キラもその恐怖に言葉を失い……気が狂いかけたところで、その勢いが収まった。
 ふわりと、何事もなかったかのように着地する。

「今日は……一体なんて日なんだ……。あのリリィ・エルトリアがいて、馬が飛んできたと思ったら闘技場を壊して、空をとんで……」
「別に驚クほどジャない」
 ぐったりとして腰を下ろすニコラ。
 キラも同じく、片膝をついてバクバクと鳴る心臓を落ち着かせた。
「驚くほどって……そりゃ、シスは良いけど……」

 よろよろと立ち上がって、あたりを見回した。
 シスが着地したその場所は、闘技場からまっすぐに伸びた大通りだった。
 ”正面通り”と同じくらいに幅広で、だからか、闘技場からわっと押し寄せた人々で一杯になっている。
 そこらじゅうで泣いたり喚いたり、不安や文句を口々に吐き出している。どうやら自分たちのことで精一杯のようで、異様な雰囲気を醸し出すシスには目向きもしていなかった。

「慣レテいると言ったロウ?」
「浮遊感が……うぅ、胸が気持ち悪く……。ユニィが暴れるのは地上だけだし」
「メチャクチャな馬ダな」
 そこへ、不機嫌そうな幻聴が頭の中へ振りかかった。
 ――ケッ、よく言うぜ、ヴァンパイアが
「良かった……! 無事でしたのね、キラ」

 美しい毛並みの馬と、それにまたがるリリィの登場は、またたく間に周囲の人々の視線をひきつけた。
 誰も、罵倒などしない。
 ただ、ただ。
 畏れをいだき、静かになるだけだった。

「危ないとこだったけど、シスに助けられたんだよ。それより……エヴァルトは?」
「え……? てっきり、キラと一緒にいるかと思ったのですが」
 キラは、はっとして闘技場を振り向いた。
 ガラリがらりと不気味な音を立てつつ土煙を上げる様に、嫌な予感が胸をざわつかせた。リリィも同じ考えがよぎったのが、その表情でわかった。

「意外トしぶといヤツだ……ドウにでもシテイルだろう」
「シス……。あなた、なにか知っているのですか?」
「サア……。タダの勘です。――それより、早ク脱出しまショウ。騒ぎニなれば厄介デス」
 ――けっ。ヴァンパイアなんぞの言うことなんか、耳貸す必要ねえんだがな
 それを聞いてもなお、キラは闘技場の方へ無意識に歩きだし――押しとどめられるように、ぐっとシスに担がれた。

「ちょ……!」
「このガキはオレが。リリィ様はその妙ナ馬で、ソコの親子を頼みマス」
 するとシスは、返事もろくに聞かずに駆け出した。
 闘技場から避難した人々の合間を縫っていく。
 左右に、ときに上下に。僅かな緩急とともに体が揺れ、キラは文句も言うことも出来ずに目を回していた。

 だからか。
「シス……」
「何ダ――ンっ、この感ジ……!」
 なにか胸から迫るものがあり。
「ごめん……吐く」
「少シ弱いが”神力”か――アァッ?」

 キラはとうとう耐えきれずにぶちまけ。
 ぼふん! とシスの白マントが煙とともに弾け飛び。
 その勢いで二人して派手にころんだ先に、
「ヨォ。なンだか楽しそうな事してんじゃねェか、なあ、キラ」
 腕を組んだガイアがいた。

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