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”古狼”ヴォルフの生まれ故郷は、マクシミリアン帝国である。
エグバート王国が覇権を握るユーロ大陸の南西に位置する、〝混迷の地〟ガリア大陸に属する国家である。
が、帝国とは名ばかり。その実情は、ただただ背伸びをしていたい小国だった。
というのも、”混迷の地”という呼び名が示す通り、今やガリア大陸は大小さまざまな規模の戦がいたるところで勃発している。
十一の国がいがみ合っていては、それも当然の成り行きといえた。実際には、ある国とある国とが手を取り合ったり、ある国を多数で攻めてみたり、複雑怪奇な模様があるのだが。
そんな戦と思惑とが渦巻く中にあって、マクシミリアン帝国はこの渦巻に飲み込まれてしまいそうなほどに矮小な国だった。
それでもなお”帝国”を自称し始めたのは、とある戦がきっかけだった。
それは、なんてことのない隣国との小競り合いだった。いってしまえばあいさつ代わりのようなもので、各々の領土を他国にも指し示すことを主とした、大げさな縄張り争いであった。
開戦と同時に膠着状態に陥り、いったん休戦し、決着をうやむやにして終戦する。少なくない死傷者を出しながらも、忌まわしき伝統として続いていくのだろうと思われていた。
だが、何の因果か……マクシミリアン帝国が勝利を収めたのである。
当時、この戦の直前で招集された傭兵、ヴォルフの活躍で。
「はあ……」
マクシミリアン国内は沸き立った。
敵将の首を取るに至ったヴォルフをほめたたえ、英雄と持ち上げた。大声援に出迎えられたヴォルフは一つとして動じることなく、そんな姿もまた彼の評価に箔をつけた。
いつしか、その年齢と一匹オオカミのような姿勢を掛け合わせて、”古狼”という呼び名がつけられるようになる。
たった一つの功績で。
否。
たった一つの、勘違いで。
「どうしてこうなった……」
そういった意味では、ヴォルフはすこぶる強運の持ち主だった。
マクシミリアン帝国は、自軍を構築し運営するほどの資金力がない。それ故に、戦となるたびに安い賃金で傭兵を買いたたいていた。
これが、一つ目の幸運。
そして”古狼のヴォルフ”が生まれたあの戦で、また別の人物に呼び名が生まれていた。”狂刃”ジャック――人殺しに狂ったまさに狂人が、一緒の戦場にいたのである。
これが、二つ目の幸運。
そうして、あの日、あの時、あの場所で……”古狼”ヴォルフは、たまたま足元に転がってきた首を持ち上げたのである。
「辛い……帰りたい……」
ヴォルフの見た目と、そこそこの実力が伴っていたのが、拍車をかけた。
百九十近い大柄な体に、威厳のある顔立ち。加齢によって茶髪にまばらな白髪が入り混じり、顔には深いしわができ始めている。
このせいで、四十という歳になってから厳めしい顔つきに物々しい雰囲気が加わり……さらにしかめ面が癖になっているために余計な威圧感を生み出し、気の弱い子供からは泣いて怖がられるほど。
数々の戦場を渡り歩いたことで生傷が絶えず、それがまたさらに雰囲気を変え……。
結果として、”古狼”ヴォルフが出来上がったのである。
しかし生来ヴォルフという人間は、その見た目と呼び名からはかけ離れた人物だった。
生きるために、死なないために、剣を手に戦場を駆ける。聞こえはいいが、すべては生々しい臆病さから生まれたものである。
ケガをしたくない、痛い思いをしたくない。でも金がないから、仕方なく戦場へ向かう。
殺されたくない、死にたくない。でも逃げてしまえばあっという間にそのうわさが広まるから、どんな手を使ってでも勝ち続ける。
ヴォルフは、そうやって臆病に突き動かされてきた。
「だが今更帰れん……」
今回も、同じである。
幸か不幸か、”古狼”の名はガリア大陸全土に広がってしまった。
金と地位と栄誉を求める屈強な傭兵は、これを誉としてさらにまい進するのかもしれない。
だがヴォルフは、いってしまえば、ビビってしまった。
引く手あまたということは、より厳しい戦場が待っている。
名が知れているということは、後に引くことも逃げることもできない。
そうして本性と実力が知れてしまえば……想像することさえおそろしい。
だからヴォルフは逃げたのである。マクシミリアン帝国からではなく、ガリア大陸全土で”古狼”ヴォルフを欲する数多の手から。
そうして、身を隠しながらはるばる海を渡り、エグバート王国に足を踏み入れたのである。
「だめだ……気分悪くなってきた。……二日酔いか?」
だが、この状況に至ったひと押しをしたのは、ヴォルフ自身だった。
酒に目がないのである。
一見すれば、酔っているのかどうなのかさえ分からない。顔が真っ赤になるわけでも、饒舌になるわけでも、ましてや酒乱を発揮するということもない。
もくもくと、ただ酒を喉に押し込んでいくだけ。
だが、確実に酔っているのだ。
だからどんな質問にも答えてしまうし、どんな問いかけにも頷いてしまうし、おだてられれば乗っかってしまう。
そうして素面に戻っても、”古狼”という響きの良さを捨てきれない。
もはや自業自得だった。
「金が必要とはいえ……参ったな」
傭兵として生きて、すでに二十年の歳月がたっている。
この年月の分だけ、戦場を駆け抜けたということであり、また生きるか死ぬかという戦いに勝ち続けたということである。
それだけの実力があるということを、ヴォルフ自身誇りに思っている。
だからこそ、調子に乗ってしまったわけだが……今回に限っては、来る戦場へ赴くことさえ躊躇していた。
原因は、先の戦いでの敗北だった。細身の片刃の剣を操る黒髪の少年……彼の姿を思い出すだけで、体が震えてしまう。
それほどに、圧倒的だった。
何の因果か再会してしまったジャックに怯えていたことさえ、ひどく小さなことに思える。
戦場に立てば、自分より強い相手にも、『死にたくない!』という臆病な思いで一心に立ち向かっていける。
しかし、かの少年を前にしてしまえば。
そんなことも考えられないほど頭が真っ白になり、戦う意味すら見失ってしまう。
「逃げるか……? いや、しかし……落ち着け、自分」
エマール領リモン”貴族街”にて、特定の傭兵たちにあてられた宿。
その一室のベッドに座り込み、夜が更けってもヴォルフは悶々と考え込んでいた。
「……! ならば、”貴族街”を出なければいいのでは? 教会辺りを散歩していればいいのでは?」
この時、臆病に徹底的に従ったがゆえに。
ヴォルフは、とある人物をめぐる運命に巻き込まれることとなる。
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よく晴れた空を見上げて、セドリックはほっと息をついた。
「俺さ、今日雨降ったらやだなあ、って地味に思ってたんだよな」
「……なんで?」
「なんというか……気分的に。だって、ほら、幸先悪い感じがするじゃんか。今から気合い入れて戦わなきゃ、ってときにずぶ濡れは萎えるだろ」
「そうかもね……」
「なんだ。ドミニクはそういうの気にしないのか?」
「私は……天候なんて気にする余裕、ない。今から戦うんだって思ったら、気持ちが落ち着かなくなる」
ひとたび晴天から視線を下げれば、物々しい雰囲気がどんよりとのしかかっていた。
視界の端から端まで人で埋め尽くされ、彼らは一様に武装していた。
革の鎧で、あるいは金属製の鎧で。背中や腰に武器を携帯し。カチャリカチャリと鳴らしつつ、自らの持ち場を求めて行き交っている。
三日前の作戦会議にて、”支援組”はエマール領リモン”労働街”の”境界門通り”を戦場とすることを決定した。
これを最終的に採決したのはシェイク市長。つまるところ、”労働街”全体が”反乱軍”の武装蜂起を認めることに他ならなかった。
あらかじめ決定していたことらしく、”隠された村”に出発する前に、住民たちとの会議を行って様々な取り決めを行ったという。
戦闘に巻き込まれないように非難するのはもちろん、”救護班”の編成もしてくれた。”労働街”で有志を募り、負傷者を戦場から遠ざけ、怪我の治療を行ってくれるのだ。
さらに、戦場付近にある家々は、文字通りどうなってもいいという。
身を隠して奇襲に使うも、屋根に登って敵を射止めるのもよし。それどころか、家の中に誘い込んで家屋ごと潰してしまってもいいらしい。
それほどに掛ける期待は大きく……なすべきことの大きさを改めて目にした気がして、セドリックは思わずうめいた。
「あー……多分、俺もめちゃめちゃ緊張してる。初めてこんなにでっかい街に来るのに、全然どこも気になんないし……。ってか、どうやってここに来たのかも、いまいちわかってないし」
「みんなで荷馬車で揺られて来た」
「……やべえ。それすらも分かんなくなってる」
左手に暖かな柔らかさを感じて、セドリックは縋り付くように握り返した。
三日前の夜。戦うときに恐さなんて気にしないと、キラが言っていた。そこで逃げるほうが嫌なのだと、一歩でも退きたくないのだと……。
どれだけの修羅場をくぐれば、そんなことを口に出来るのだろうか。セドリックは、そしておそらくドミニクも、そう感じずには居られなかった。
まだ本格的な戦いが始まるまで、一時間以上はある。
そもそも、実践の経験が少ないために、”支援組”としても前線に出ることはない。せいぜい、誰かのサポートをするくらいである。
だというのに……。
すでに、引き裂かれそうなほどに心がぐちゃぐちゃになっていた。
「吐きそう……」
「私も……」
第一段階や第二段階の作戦は、まだ良かった。ピンチになったとしても、すぐに退避して次へ対処すれば、挽回できる。
しかし、今回ばかりは……。
そう考えてしまうと足がすくみ、逃げもできなくなってしまう。
「ようっ、お二人さん! 顔色悪ぃなあ、もっと元気出せって!」
バンッ、バンッ、と。いきなり容赦なく背中を叩いてきたのは、オーウェンだった。
「ちょ、オーウェンさん! もうちょっと力加減してくれてもいいと思うんスけどっ? ドミニクなんて吹っ飛んだじゃないっすか!」
セドリックの小柄な恋人は、さっとフォローに入ったメアリに助けられて事なきを得ていたが……。メアリにしがみつき、ぷるぷるとして動けなくなっていた。
「あっはっは! すまんな! つい!」
「つい、って……」
「まあ、そんなカッカすんなって。もっと肩の力抜いてけよ」
「……そう言われても」
「これ、悲しい事実なんだがな? 今回の作戦の主役は俺達じゃないんだよ。んでもって、ここにいるどんな奴も、主役を張れるタマじゃねえんだ」
やれやれ、と首を振るオーウェンをじとりと睨み……そこで、ふとセドリックは口を閉じた。
途端に、周囲の雑音が耳の中へと入り込んでくる。
「まったく。ちっちゃい女の子にも容赦ないんだから……」
そうぶつぶつ言っているのは、メアリであり。
「ちっちゃいは余計……。私、気にしてるから」
ぼそぼそと返すのはドミニク。
彼女たち以外にも、いろんな声が慌ただしい雰囲気の中からはじき出されるように耳に届いた。
「やべえ、やべえ……!」
「もう始まんのかな。あ〜……もっと訓練しとけば……」
「矢筒……! どっかいった!」
「あ、俺も! ああっ、ナイフもねえよ、どこいったっ」
「どこに配置につけば――」
「矢を射るなら屋根だろうけど……滑り落ちそうで……!」
「合図、合図決めとかねえと……! 同士討ちはシャレになんねえって」
誰も彼もが、余裕がなかった。刻一刻と近づく戦いへ向けて、神経をすり減らしながらも、最善をつくそうと忙しなく動いている。
皆の慌てた姿を見て、セドリックは揺れに揺れていた気持ちが少しずつ落ち着いていくのを感じた。
「俺もまあまあ自信あったんだけどなあ。けど、セドリックのこと笑えないくらいには緊張してるし……。あの三人が実力者って言われるのも納得だ」
エヴァルト、シス、そしてキラ。このリモン”労働街”に着くまでの道中、三人には緊張というものが一切見られなかった。
いつものように飯を食い、いつものごとく口喧嘩をして、普段と変わらず眠りにつく。この重圧が日常であるかのように、三人には特に気負った風もなかった。
「俺らはその名の通り”支援組”。手近なやつをサポートすりゃ、そいつもフォローしてくれるし、それが作戦の成功にもつながっていく。難しくないだろ?」
「……そうっスね」
セドリックは一度大きく深呼吸をして――バンッ、と自分の両頬を叩いた。
どこからともなく颯爽と現れたキラが、ヴォルフもジャックも同時に相手しているのを見て……自分もあんなふうになれたらと、思ってしまった。
だから、キラと己を比較して。自分の矮小さに勝手に落ち込んで。挙句の果てには戦うことそのものに怯えてしまった。
おこがましいにも程がある。
一度手合わせし、完璧に敗北したというのに、キラと同じ土俵に立っているのだと勘違いしていた。
確かに、キラの言う通り、何が出来るかを気にしても意味がないのだ。
「よしっ。オーウェンさんはどこに配置につくんすかっ? 俺、サポートしますっ!」
「んおっ、復活したな、セドリック。ドミニクも」
目を向けたときには、ドミニクの色白な両頬が真っ赤になっていた。メアリが苦笑しているのを見ると、ドミニクも同じようにして気合を入れ直したらしい。
いつもは小さく感じる恋人の姿が、こころなしか大きくなった気がして、セドリックはニッと笑った。