その日の夜は、満天の星空だった。
誰もが見上げてしまうくらいに、美しいものだった。
子供がその美しさに目を惹かれれば、親を家から連れ出して一緒に眺め。夫婦や若い恋人たちも、一緒になって顔を上げる。
そんな時だった。
夜空の美しさを切り裂くけたたましい警鐘が鳴り響いたのは。
「これは――」
誰かのつぶやきは、あっという間に悲鳴に変わった。
地面を揺らす轟音が、どこからともなくとどろいたのである。
悲鳴が悲鳴を呼び……。
やがて恐怖そのものが街すべてを飲み込んだ。
「なんで――」
「逃げなさい、早く!」
「こんなことになるなんて――」
重なり合う、悲鳴と怒号と足音。
その合間を切り裂くのは、炎の塊だった。
木造家屋を、石敷きの道を。焦がし、燃やし、砕く。ついには逃げ惑う一人の男の背後にまで迫り――、
「――ッ!」
脅威は、刀の一振りに排された。
残像も残さない太刀筋は、まさしく電光石火。白銀の刃に巻き付く刀と一緒に、凶悪な炎を引き裂いた。
今にも泣きべそをかいていた男は、腰を抜かして唖然とその光景を見つめていた。
「ほら、立って! 行ってください!」
雷のほとばしる刀を握るのは、まだ少年だった。
男の腕を引っ張る力は強く、背中をたたいて促す音も大きかった。
「どこでもお構いなしなんて――ね!」
続けて空から降りかかる火球に、黒髪の少年は背を向けた。
飛び散る石塊、迫る熱気、降り注ぐ木片。時に刀で振り払いつつ、猛然と街中を駆け抜ける。
少年が石造りの家々を駆け抜けるたびに、道の様子が変わっていた。
舗装されていた石の道が、徐々に剥がされ泥道に。ぬかるみのある地面には靴跡が残り、その幅がだんだんと狭くなっていく。
「ハァ、ハァ……。この辺は、あまり人がいない……良かった」
両端をオンボロな家で挟まれた裏路地で、少年は荒ぶる呼吸を整えた。身体を折り曲げ、壁に手をつく。
感覚は、いつもより鋭かった。
指の腹から伝わる岩の感触。少しでも動けばぬかるむ泥道。複雑に入り組んだ家々の合間を通り抜けていく風の音。
薄暗い壁沿いをねずみが走り、道端に放置された木箱に隠れる様まで、見なくともわかる。
だからこそ、
「いたぞ、こっちだ!」
鎧に身を包まれた兵士たちが近づいているのも、手にとるようにわかった。
「帝国兵士……!」
少年は刀を握りしめ、敵めがけて駆け出した。
一歩踏み出すごとに、目の前の状況を分析する。
呼子笛を吹く兵士は、一人。笛から口を離し、抜剣する。右手でしかと握りしめ、左手に炎を宿す。
「貴様、止まれ!」
無論、兵士の制止は脅しではない。
少年も、それをわかっているからこそ、一層大きく踏み込んだ。
「君らこそ、もう止めたらどうだ!」
「何を……ッ!」
飛来する炎をひきつけ、避ける。
少年の身軽な動きに、兵士は一歩後退しつつ、左手も柄に添えた。
「観念するのは貴様だ、少年! 我々は――」
兵士の言葉は、続かなかった。
油断なく構えた剣が容易に弾かれたのだ。
そうして大きくさらされた無防備な懐に、峰打ちが吸い込まれる。
「――ばけもの、め……」
崩れ落ちる兵士に、少年は安堵するどころか、表情を険しくした。
足元から視界を外し、背後を睨む。
「……化け物って、普通あっちの事を言うでしょ」
燃え盛る街と反響する悲鳴を背に、大きな影を落とす怪物。
――ォォオオオオオッ!
すべてを破壊し尽くす災厄の魔獣、ドラゴンがそこにいた。
歴史上、最も偉大な英雄は、記憶をなくした少年だった。
彼は、人が人らしくあるために必要なものが奪われた。故郷も、両親も、友も。そして、居場所さえも。
すべてを白紙に戻された少年は、海岸に打ち上げられたところをある老人に拾われる。
過去に華やかな活躍をした、老いた英雄に。
世界でも類を見ないこの稀有な出会いが、すべての始まりだった。