リリィ・エルトリアの動きは、雨の中にあっても軽快だった。
水浸しの足元にとらわれることなく、ステップを踏み、”魔豚”オークを引き裂く。
パッ、と豚の胸から血が飛び散り――直後、発火。紅の炎が切り口から体内へ入り込み、またたく間に焼き尽くした。
「次」
炎を焼き尽くす炎。そう称されることもある強大な”紅の炎”は、生まれつき宿したものだった。
そのために、苦労も絶えなかった。
使うたびに火傷をし、少しでも力めば暴走した。
時間をかけて、”紅の炎”に向き合う他なかった。
使い方を肌で覚え、感覚を養い、ようやく制御方法を覚えた。
他の様々な魔法を犠牲にする代わりに、血を吐くほどの努力で天性の才能を完璧にモノにしたのである。
「次……!」
ただ、リリィが本当にのぞむのは、別にあった。
今なお色褪せない、母の後ろ姿だ。美しい剣舞は、目に焼き付いて離れない。
しかし、生きしその背中を追うにはあまりにも未熟で――やはり、時間をかけて剣の鍛錬をするほかなかった。
およそ貴族の娘に似つかわしくない日々だった。
竜ノ騎士団の騎士たちに片っ端から挑んでいた。負けては翌日に再戦し、勝っては次の猛者を求めた。
そして、かつては英雄の弟子だった父にも剣を振るった。
毎日。何年も。勝つまで。
積み重ねた経験は、やがて勝利をもたらした。
積み上げてきた執念が、現在の強さをかたどった。
竜ノ騎士団”元帥”リリィ・エルトリア。その立場に誇りを持ち、そう呼ばれることに努力の証を感じていた。
――だが。
上には上がいた。
「次……っ!」
英雄に会いに森に入ったところ、”大鬼”オーガと一人対峙する少年がいた。
その後姿をみて、リリィは驚いた。
記憶にある母の姿と、瓜二つだったのだ。
オーガを追い詰める一連の動作、振り上げられた剣の軌跡、そして膝を付きうずくまるその様子まで。
「次!」
キラは天才だった。
剣士でもなかったというのに。
人が何年もかけて築き上げた努力を、すでに越えていた。
リリィは頭の中がぐちゃぐちゃになり……旅の同行を否定した。
「次ッ!」
そんな彼と、決闘した。
まるで世界がひっくり返ったような感覚だった。
圧倒的天才なはずの彼に、憧れだと言われてしまったあとでは。
剣の腕も、芯の強さも、身体の弱さも。全部ひっくるめて彼なのだと、認めるほかなかった。
想像以上の孤独を抱える少年を、突き放してはならないと思ってしまった。
「――ふぅ」
やりきれない気持ちや、しこりのようなわだかまりは、まだある。
だがそれは、キラを前にすると吹っ飛ぶ程度のものだった。いつの間にか忘れて、ついつい絡んでしまうのだ。
「リリィ様、どうされたのですか」
どこまでも平坦な幼馴染の声は、いつになくスッキリしていた。
どうやら、魔獣の群れを一層したことで気分が晴れたらしい。全く変わらない表情の中にも、口元や頬に僅かな変化がある。
「セレナこそ。何にイライラしていたのよ」
「イライラというか、モヤモヤというか……リリィ様ならばおわかりでしょう。あの不思議な少年は、なんというか、疲れます。調子が狂ってしまいます」
「ふふ、私も同じだから、分かるわよ」
「だから、雨に濡れながら戦っていたのですか。いつもは炎をまとうでしょう?」
赤毛のセレナの頭上には、光の塊がフヨフヨと浮いていた。降りしきる大粒の雨粒を弾き、その下にいるセレナに一滴の濡れも許していない。
「ちょっとね。考えることもあるのよ、キラについては」
「具体的には? ――そろそろ教えてくれてもよろしいでしょう」
セレナがくるくると指を回し……パチンッ、と小気味の良い音を鳴らす。
リリィがちらりと頭上を見上げると、きらきらと輝く光の玉が出来上がっていた。小さな円を描くようにしてフヨフヨと回転し――すると、ポニーテールの先から足の先まで、全身から水滴がはじかれた。
気色の悪い感覚が全身から消え去り、リリィはどこかホッとして親友に礼を言った。
「ああ、ふたりとも、早いね」
そういいながらも、負けず劣らず相当量のオークを屠ったランディが、ずぶぬれになりながら近寄ってきた。
「さすがに、現役なだけはある。雨にはいい思い出がなくてね――私にもしてくれないかい、”天使の輪”」
「正確には球体です」
メイドは律儀に訂正しつつ、老人にも”雨除けの魔法”をかけた。
「ありがとう。しかし戦いながらチラチラ見ていたが、君らの実力は凄まじいな。私が王都にいた頃には、リリィくんみたいな炎の使い手はいなかったし、セレナくんみたいな魔法使いもいなかった」
「炎の使い手、ですか……」
「む、それほど気落ちすることはないよ、リリィくん。なにせ、君はまだ若い。二十歳にもなってないんだろう?」
「キラは、いくつなのですか?」
ランディは、その一言ですべてを察したらしかった。
皺くちゃで朗らかな印象のある顔つきを、一気に厳しいものへと変える。だが、それも一瞬で、眉間に寄せた皺をすぐに解いてみせた。
「さあね。なぜ聞くのかな?」
「……いえ。ただ、キラのことを知りたくて。セレナも」
「キラくんについて知ることは、殆どないよ。記憶喪失の状態で海岸に倒れていた……知っているのは、それだけさ」
「記憶がない……?」
老人の言葉に、少なからずセレナも動揺していた。
その気持ちは、リリィにも痛いほどわかった。
なにかの間違いでもいいから、あの少年が母の生まれ変わりであるようにと。そう願ってしまうのだ。
「しかし、それでは、名前は?」
「私がつけたんだよ。本名は分からない。ただ……」
「ただ?」
「少しだけ、思うところはある。黒髪黒目は珍しいことではないが……私と彼の故郷は同じなのではないかと、感じてしまうんだよ」
「同郷の……。そういえば、ランディ様のご出身は?」
「ん――ンッ」
ランディの顔つきが変わり、遅れて、リリィも異変に気づいた。老人の視線を追って顔を向ける。
「おふたりとも、どうかされましたか」
雨が降りしきること以外に、何も異変が起きている様子はない。
だが、リリィはたしかに何かを感じ取った。空気を伝って、肌を突き刺すような感覚があったのだ。
そして、その直後。
どっと、力の波が押し寄せてきた。
そのあまりの衝撃に、リリィもランディも、そしてセレナでさえも膝をついた。
「今まで感じたことのない力です……っ。魔法ではありません!」
「”神力”だ。十中八九、彼の……! これで余波とは、想像以上に……!」
「雲が黒く渦巻いて……!」
この世の終わりのような光景だった。
分厚い雲で真っ黒に染まった空は、渦を巻いていた。なおも雲をかき集め、やがて蛇のような稲妻がほとばしる。
「あの渦の真下にキラくんが……! しかし、どう見ても村の中じゃないな!」
「まさか、外に……! キラは――!」
直後、まばゆい光が覆い尽くした。闇に包まれた辺り一帯が……森や山の奥の方まで、一瞬にして照らされる。
そして、音を置き去りにして。
雷の柱が、大地を貫いた。
○ ○ ○
遠く離れた王都にて。
都の四分の一を占める敷地の中心。そこにそびえるエルトリア邸。豪奢な屋敷の最上階に構えられた”当主の間”。
書斎机で腕を組み、丸まった羊皮紙とにらめっこをしていた男が、ふと顔を上げた。
「む……?」
白髪交じりの金髪をきれいに刈り揃えたその紳士は、竜ノ騎士団の総帥〝代理〟であり、エルトリア家の当主”代理”――シリウス・エルトリアだった。
彼は顔を上げて、しばらく耳をそばだてていた。
と。
「代理〜、入るよ〜」
コンコンコン、という早めのノックののち、返事を待つこともなく扉が開け放たれた。白衣の女性が、にこやかな笑顔とともに無遠慮に入ってくる。
「何だ、エマか」
「うん? その反応はどういう意味だい?」
「なにか音がしたような気がしたのさ。まあ、それはいいとして。竜ノ騎士団第九師団師団長”鬼才のエマ”」
「お? なんだい、改まって」
「別に慣れたからもういいが。私を”代理”と呼んだり、形式上でも敬語を使わなかったり……君だけだよ。一応、私、トップなんだが」
「お〜? 気にしてるふうには見えないけどな〜。そうしてほしい?」
「……いいや。いまさら改まった態度を取られると、何かあるのかと勘ぐってしまう」
シリウスは苦笑しつつ、身振りでエマにソファに座るように促した。
書斎机の前に鎮座する、来客用のテーブルと対のソファ。その一方にむけて、ピョンッ、とエマは体を投げ出した。まるで子供のように寝転んでしまう。
事実、彼女は小柄だった。
百五十にも満たない身長に、細身な体つき。手入れは欠かさないが散髪が面倒だからと伸ばしている茶髪をサイドテールにまとめ上げ、さらに童顔ともなれば……到底二十を過ぎた女性とは思えない。
おとぎ話に出てくる小人族の童顔美女が、そのまま出てきたかのようだった。
「……だから恋人が出来ないのだと、忠告しておくよ」
「あ。セクハラ〜」
「私の娘たちも、君に似て恋愛のない人生を歩み始めているからね。放っておけないものなんだよ」
「そっとしとけばいいのに」
「そうはいっても気になるものさ。なにせ、娘だからね」
「じゃあ、朗報だね」
「……うん?」
エマは寝転んだまま、白衣のポケットから一枚の紙を取り出した。無造作にぽいと空中へ投げ、すると、羊皮紙はひらひらとシリウスの手元に滑り込んだ。
「英雄一行に同行者あり……?」
「そ。少年が二人。一人は冒険者。そっちは問題ないけど〜……もうひとりは、なんと”不死身の英雄”の後継者!」
「ああ、もう読んだ。壁がないだの、距離感がないだの……! 主観と私情混じりじゃないか――よりによって、セレナが!」
「良かったね〜。二人とも一気に貰い手が見つかった感じ?」
「ぬぅう! んぐぅ……!」
「歯ぎしり! どこの馬の骨ともわからない男ならいざしらず、英雄の後継者だもんね! 怒れないよね! 師匠の秘蔵っ子だもん!」
「ぬぅあ! からかうんじゃない! で、要件は!」
「あははははッ! ちょーヤケクソ!」
しばらくの間、〝当主の間〟には怒号と笑い声が響き合っていた。
「あー、笑った。代理、ありがとう」
「まったく……。君も私をからかうほど暇じゃないだろう」
「まあね〜」
「要件は……と聞かなくとも、わかってはいるが」
「じゃあ話が早いね。でも、その前に」
エマは飛び起き、扉に近づいた。ポケットから出した”陣札”をぺたりと貼り付ける。
指で軽く擦るだけで、描かれていた魔法陣が扉に転写された。
「これで盗聴の心配はないね」
「いつものことながら、便利なことだ。普通は色んな場所にはらなければならないのに」
「ふふん。魔法陣は公式で出来ているんだ。これほど単純なことはないよ〜。想像を膨らませれば、何だって出来る」
「そうでない人間にとっては皮肉でしかないよ」
お互いに笑い合っているのは、エマがソファに寝転ぶまでだった。
ぽむ、とソファに体が沈み込む音を皮切りに、室内の緊張が一気に高まる。
「帝国軍は、相変わらず騎士団支部を?」
「その傾向だね〜。なくなりゃしない、てかんじ」
「第九師団支部は?」
「おっとさっれたー。読みどおり――”転移の魔法陣”がやられちゃった」
「まあ、君が向かわなかったんだから、見えていた結果だ。……あとでちゃんとフォローしておくんだぞ。副師団長は君と違って真面目なんだ」
「だいじょーぶだよ。役目も意味もちゃんと理解してるから。被害は少ないみたいだから、割と平気っぽいよ。文字だけだけど」
「周辺の街や村に物資と人手を待機させたのは正解だったな」
「んね? 私の言ったとおり」
「疑ってはいないさ。だから、こうして平然としていられる。――七年前、君がいなかったのを悔やむばかりさ」
「私にだって年齢というものがあるんだけど〜」
「褒めてるんだよ」
妙な静けさが、室内を支配した。
空気が、重たい塊となってのしかかる。ふたりとも、ぴくりともしなかった。
「あのさ。自分で言って自分で傷つくの、やめない? 邪魔」
「君は、たまにグサッと来ることを……しかし、まあ、もっともだ。それで?」
「次がどこか、なんてのは見当がつかないよ。落とされていない支部、としか言えない。だけど……」
「だけど?」
「元帥二人に英雄一人。まあ、目立つよね」